目 次
1.行動医学とは
行動医学(1)
喘息大学学長 清水 巍
これまでの医学が薬物を中心として発展してきたものであるとすれば、行動医学とは、人間の行動科学を取り入れて発展した医学であるということができます。
治療法としての行動療法は、文字通り「クスリや注射、その他、何か食べたり飲んだりする治療法」とは異なり、自分、あるいは家族・医師・社会とのかかわりを行動としてとらえ、その行動を変えていくことによって、病気をよくしていこうというものです。狭い意味では「自律訓練」「バイオフィードバック療法」「弛緩訓練」などが、その一種だとされています。
しかし私は行動医学、行動療法というのは、単にそういう種類の治療法のどれはを指すというのではなく生活のパターン、行動のパターンを変える広義のものを意味し、乾布マサツや腹式呼吸、水泳、ヨガなどが含まれ、日常の生活、患者同士の交流のあり方なども問題とする広い学問だと考えています。
米国医学では、患者の行動習性が治療効果を左右するということで、この「行動医学」が新しい治療法として注目されてきています。日本でも、先進を行く1部の医師に支持され広がりつつあります。
私にはP氏に関する忘れられない光景が瞼に焼き付いています。P氏は、私が喘息にとりくみだした頃、毎朝のようにきまって暁方、強烈な発作を起こしました。廊下を壁につかまり、フラフラと倒れるようにやってきました。ブドウ糖とネオフィリンでやっと、発作が静まります。ところがある朝、私たちの目の前で、いつもの発作がブドウ糖だけで、いつものように全く軽快してしまったのです。患者さんもショック(後から知って)を受けていましたが、私には衝撃でした。あの、まだ薄暗い看護婦室でのシーンは忘れることはできません。
この例は、誰でもがそうだということであげたのではありません。こういう例をあげると、ある人たちは大なり小なり類似体験から「そうだ、気の問題だ」と結論します。少し賢い人は「自分にもブドウ糖だけでやってくれ」と頼み、やってみて治らなかったら確信をもち「そうだろう、やっぱり自分の喘息に気の問題はなかった。喘息は気の問題ではない」と結論します。
もっと賢い人は、「そういう典型的な人も稀にはあるだろう。大なり小なり気の問題は多くの喘息患者にはある」と正しく表現するでしょう。では、行動医学からみて、P氏の喘息はどうして起ったか。
2.P氏の喘息の起こり
行動医学(2)
喘息大学学長 清水 巍
P氏は、中国地方で有名な会社の社長の息子として生を受けました。しかし、ある事情で、石川県のN村に養子として引きとられました。その家庭で、義母一人、自分一人として成長することになったのです。
生後まもなく幼児湿疹がひどく、義母は苦労したと語っていました。私は患者であるP氏(仮名)と一対一となって「あなたの喘息発作の一番最初の記憶は、どういうものだったですか」と尋ねました。P氏は重い口をわって、次のような光景を話してくれました。
「近所の子供たちと遊んでいました。私は弱かったのか、貧乏であったのか、いつもいじめられていました。あの日は川のそばで遊んでいました。一本の丸木橋が向う岸にかかっていました。それをみんなが、先に渡れ、渡れとはやしたてたのです。今でも、その声が聞こえてきます。その時です。ヒュー、ヒューと、私は息苦しくなり、顔や身体がおかしくなったのです。
回りの子供たちは“大変だ、おら知らね、おら知らね”と逃げていってしまいました。私がうずくまっていると、近所の人や義母が来て医者へ連れていってくれたそうです。うずくまって、子供たちがみんないなくなった。橋を渡らなくてよくなった。そこまでしか記憶がありません。」
これがP氏の隠されていた原点でした。P氏は、何回となく石川県内の病院をあちこち入院していました。城北にも2回目であったようです。入院する時や、外来初診で病歴を聞かれたことは、何度もあったことでしょう。しかし、P氏自身、この小さな体験がどういう意味をもったか知る由もなく、喘息と闘ってきたのです。医師に語る必要など夢にも思っていなかったでしょう。恥かしいこととして、口に出したこともなかったようです。忙がしい医師の側でも、ありきたりの喘息、それがいつ、どうして起こったかを、普通にしか聞かなかったとしても、どうして医師を責めることができるでしょうか。
私は息づまるような思いで、P氏に話の続きを聞きました。それから以後は、たびたび学校を休んだこと、試験や運動会、旅行の時には発作が起こったこと、そのたびに医者に連れていってもらったこと、カルテの記載と一致しています。学校も義母も、同級生も、近所の人も「Pは喘息だから。」ということで、P氏の生活を容認するようになりました。病院を転々とし、種種の治療に連れていってもらう。いわゆる“行脚”(よくなるまで種々試みること)が開始されたのです。
仕事は、最初についたのが木工でした。木工の技術を習うべく修行に出ました。
杉を使い、しばしば発作を起こしました。次は塗装工として仕事に就きました。何故、こうも喘息に悪い職業ばかり選んだのか。話しを聞いて私は唖然としました。回りの無知、本人の無知、受身的な行動パターンが、そういう運命を呼びこんだのではないでしょうか。ある面では喘息を疾病利得として行動してきた人に、私はどんな手を打てばよかったのでしょうか。
3.P氏と疾病利得(しっぺいりとく)
行動医学(3)
喘息大学学長 清水 巍
P氏が幼少の頃、丸木橋を渡らされそうになって、その恐怖と拒否反応から喘息発作が起こったこと、その結果、丸木橋を渡らなくてよくなったこと。みんなが心配してくれたこと、医者に連れていってもらったことをお話ししました。
逆境の境遇から異郷の地にもらわれてきて、おそらく間違いなくあったであろうアレルギー体質のために小児湿疹がひどかった幼児が、たまたま喘息発作を起こしたとして、何の不思議がありましょう。多くの喘息の子供にしても、大人の喘息の人にしても、どういうわけで喘息発作が起こったのか、分らない人は大勢います。P氏の場合、行動医学の立場から見ますと、恐怖の絶頂、絶対絶命と自分が思った時に、発作が誘発されたというのも興味はありますが、起こった後の体験が重要な意味をもつと考えます。
発作の結果
・橋を渡らなくてよくなり(①困難と恐怖を回避できた)
・同情と心配を集めることができた(②いたわられることができた)
・医者に診てもらう(③安心かつ治ることができた)
という体験ができたのです。
この経験は、回りの人が心配し、同情すればする程自分も大変なことになったと思うのですが、必ずしも悪い感情に色どられたものではありません。大変だとは思っても、内心、困難を回避できたので、復讐できたという快感と、納得感さえ伴うとされます。このように、疾病によって受けたとされる、先の( )内の①~③のような利益や得を「疾病利得」というのです。私は、すべての発作が「疾病利得」だと主張しているのではありません。P氏の場合、たまたま起きた発作が期待もしなかった利得と結びついてしまったという事実を指摘しているに過ぎません。
P氏はこの後、試験の時、運動会の時、旅行の時、発作が次々と起こることを体験しました。勿論、カゼや気候の変動、ホコリを吸ったり、過激な運動時には発作も起こったでしょう。自分も試験を受けよい点をとり、運動会に出てビリでもよいから走りたい。旅行にもみんなと一緒に行きたい。頭ではそう考え、そう親にも先生にも話していたに違いありません。心の中も、自分でながめる限り、その通りだったでしょう。しかし、身体には発作がきまって起きるようになったのです。
ここに「心と身体の乖離(かいり)(互いにそむき離れる意)」を見ることができます。しかし、心も身体も疾病が出ることによって“疾病のせいだ”と万事解決がついたのです。心には、自分で知ることができない、無意識の世界 海があります。そこからの指令、これを治すことこそ行動医学であります。
私がP氏の喘息をP氏とともに治すために打った手の第一は、彼から十分話しを聞くことであり、彼が自分で自分の喘息をふり返れるようにすることでした。
4.P氏の喘息からの離脱
行動医学(4)
喘息大学学長 清水 巍
P氏は始めて自分の過去・考え・思いを医師に話しました。喘息のために自分はこうなったのだと語りました。喘息がなかったら、どんなに素晴らしい人生を歩めたか・・・ということも確認しました。そこで、治せばよい、治ればよいのだということを強力に話をしました。P氏も「受容(じゅよう)」しました。治らない。ダメだ。お先き真暗で、発作のくり返し、入院生活。それは『発作、喘息のせいで余儀なくされている』そういう運命に曙光が射しこんできたのです。治せるかもしれない。治るのかもしれないという考えが、過去をあらいざらいぶちまけ、見なおすことによって生じ、違った生き方が見えてきたのです。
しかし、そこにくるまで右余曲折がありました。トラブルは、病棟の看護婦さんとの間に起きました。それはそうでしょう。朝の暗いうち、看護婦さんが起きかける頃、いつもきまってネオフィリンの静注にきた人が、目の前でブドウ糖だけで、ものの見事によくなって帰っていくのですから。P氏は一週間も過ぎた頃「どうしたんだ、この頃看護婦さんはどうして僕によそよそしいんだ」と敏感に反応しました。
この時点で、既に違った生き方をしてみようと受容していたP氏は、発作も軽くなってきたこともあり、レントゲンのフィルム整理の手伝いなどをやり、社会復帰への訓練を始めていました。発作がブドウ糖だけで治ったこと、これまでの発作が社会からの逃避を肯定する免罪符(めんざいふ)になっていたことなど、自分でも認めるようになりました。点滴や静注をせず、朝9時になるとレントゲン室に降りて、職員の手助けをするP氏には、はにかみと恥しさの裏に笑顔が戻りました。レントゲン室の職員も「オー、Pさん、がんばっとるじ」と声をかけました。看護婦さんも、昼食時や手伝いを終えて戻るP氏に「ご苦労やったネ」と明るく声をかけました。この体験を受容したP氏は発作の陰に隠れる生活よりも、発作が出なくて励まされ、明るい笑顔につつまれる生活を受容したのです。
行動医学の立場からいうと、違った生活と行動を前向きに行うことによって、より大きなメリットを発見することができ、心も身体も、最初はオズオズでありながら、発作のない、これまでとは全く異なる入院生活に慣れ、安定したと考えます。このP氏の発作からの離脱には、医局、看護婦、事務、レントゲン、病院経理部の強い意思統一、打ち合わせ、協力があったればこそ、可能になったことです。しかし、何よりも、P氏が180度転換した生活へ挑戦し、そこへの道を「受容」し、行動を始めたことにより、離脱が可能となりました。自分こそがカギを握っているのだ、と言えましょう。P氏は、祝福のうちに退院できました。しかし・・・・・・
5.個人の挫折
行動医学(5)
喘息大学学長 清水 巍
祝福のうちに退院したP氏は、夜間の守衛の仕事に就きました。入院中、吸入誘発テスト(皮内反応陽性であったり、原因となる可能性のあるものを吸入して一秒量が下ってくるかどうかみる検査)で、カンジダというカビと、杉花粉が陽性であることが判明していました。ですから、入院中に引きつづき、減感作療法に通院する必要がありました。最初の3、4回はよかったのですが。
警察官にも似た守衛服には、白い紐がつき、見るからに頼もしく、颯爽としていました。照れながらその服を脱ぎ、診察を受けるP氏には、得意さ、さえ伺えました。
「いやー、いい仕事につけた。守衛なら、そう喘息には悪い職業ではないだろう」と私も喜んだものです。私どもの側に、“これで完全によくなってほしい”“立ち直ってほしい”という期待が強すぎたのでしょうか。それとも、P氏自身が城北病院では悪いところを見せてはならないと強く意識しすぎたためでしょうか、退院後の始めての発作の際、城北病院に来なかったのです。ひどくて、とても金沢の城北病院へまでは来れなかったかもしれません。カゼをひいたためなのか、アレルゲンに曝露されたためか、仕事へ出てタバコを吸うことを覚えたためか、それとも、義母とうまくいかぬ何かがあったためか、原因は分りません。重要なことは、城北病院にそれ以来、来なくなったことです。
当然、発作のため、家でブラブラするようになりました。メジヘラを薬局で買い、ひどければ近医で静注を受ける。アッという間にそういう生活に戻ったのです。守衛として、あちこちへ派遣する警備会社は、慈善事業ではありませんから、これもアッという間にクビです。義母は困って、城北病院に相談に来ました。再び生活保護をとること、城北がイヤであれば、同じぐらい距離のところにある寺井診療所(寺井病院の前身)へ通うことを勧めました。だが、発作がおさまらず寺井診療所へ入院したP氏はすさんでいました。髪はボウボウ、さながら毛を逆立てて人を寄せつけぬヤマアラシでした。一週間に1回、寺井診の外来へ私も行っていましたから、病室へ診にいくのですが、看護婦さんにも私にも、二度と心を開かずやがて退院しました。
容易に落ちる個人の姿がありました。庇護される病院から、荒波の世に出たP氏は、入院生活が長かっただけに、今浦島太郎でありました。退院して働いて養ってほしい。それだけを念じてきた義母との二人生活は、きっと息苦しいものであったでしょう。家庭や社会の受け入れは十分ではありません。P氏自身にも困難を切り開く気概や才覚も不足していました。当時の私でさえ、やっと退院できたことを喜ぶだけで、そこまで予測をし、指導できる力量を持ち合わせていませんでした。
問題の核心はどこにあったのでしょうか。
退院後の再発作、たとえ重篤であっても、たった一回で、自身も希望も我慢も投げ捨ててしまったことが問題の核心です。やっとうまくいったのに、たった一度の重篤な再発作やつまずきで、『離脱』を中止し、元へ戻ってしまう。これを『挫折』『退行』と言います。深い絶望感がたとえあっても、それを正面から見すえて、立ち直るのではなく、もう再挑戦をやめて病気の陰にかくれてしまう生活にまた戻ったのです。どうしてなのか。―(読者の)皆さんの、あなたの分析や考えを聞かせていただければ幸いです。
P氏だけでなく、一般の喘息の人も、「もうこれで大丈夫」と思っていたのに、「またひどくなる」という経験をします。その時こそが試練です。どこまで落ち込み、自信を失くすか、個人差があります。脱出の姿勢、スピード、教訓への仕方にも、個人差があります。逆に、自分だけの問題としか考えないと、P氏のように続ける心を開くことができず、外からの働きかけを拒否することになります。
P氏のような個人の挫折を何とか防ぐことができないか―。そんな思いも一因となって、石川県喘息友の会や、喘息大学の患者集団づくりに、努力を傾注するようになったのだと思います。
6.社会不適応症候群
行動医学(6)
喘息大学学長 清水 巍
P氏はひどい喘息として点滴や静注、吸入をくり返している限り、入院生活を続けることができたでしょう。入院生活には適応することができたのです。しかし、社会へ出て、稼ぎ、養母を養い、自立していく社会生活には適応できませんでした。城北病院や寺井病院に戻って、再出発を試みる、そういう闘病生活をも拒否し、石川県のN村から養母と共に旅立って行きました。
喘息がひどいから○○ができない。それは事実ですが、心の影響のみならず社会生活に適応できない対人間関係が耐えきれなくなっている。それで喘息がひどくなっている―それが喘息悪化の原因になっていることは、しばしば見られます。喘息が悪化するから点滴にもきたり、入院したりするのですが、それは喘息が重症だからではなく社会生活、家庭、職場、地域、友人、親戚を含みますが、そのどこかを結ぶ関係が思うようにならない結果として自立神経を失い、喘息が湧出し、発作になることがあるのです。ああ、今日も胸が泣いてるな、ゼーゼーヒューヒューと、今日も泣いている。抗議している自立神経がもうたまらん、何とかしろ、今の生活から抜け出せとシグナルを送っている。救けて、何とかして、という声が、聴診器の向うから聞こえてくることがあるのです。
心身医学は、心と身体の関係のみでものをみます。ですから、催眠療法とか自律訓練、心理療法がでてきますが、行動医学は、その心は社会生活の中で病みついたものである、行動の中で傷ついたものであるとして、行動生活、社会生活の中で心も身体もとらえます。きっかけとしてアレルギー、感冒、過労、天候の影響で発作が出ますが、発作の出た生活が、その後どうなっていくのか、心や身体がどうなっていくのか、天と地がひっくりかえるようになる場合もあるでしょう。ハウスダスト、花粉、真菌、薬品や添加物、感染やストレス、あるいは入浴や天候不順までも発作の誘因とするならば、家庭での関係や職場、地域での人間関係も誘因となることがある故に喘息は「社会生活不適応症候群」の一つとも解釈されます。
社会不適応症候群あるいは、現地に不適応となった疾病といってもよいかもしれません。
だとすると、減感作して抵抗力をつける、インタール、アトロバント、リカヘン等で予防する。鍛錬をして環境に順応できる身体をつくり、自律神経を鍛え正常化する。よく仕事を家庭や人間関係を整え、趣味やスポーツに精を出し人生を楽しいものとするetc。喘息大学のように少しずつ前向きに自分を変え、他人を変える試みに参加し、生活や考え方を変えることが、大いなる前進を作る驚くべきキッカケとなります。現にクスリや養生グスリの一切を絶って、発作なしの「完全社会復帰」「健康回復」の、喘息大学学生が、次々と輩出しています。
にもかかわらず、ハチミツだ、アロエだ、紅茶キノコだ、コロッと治るもっといいクスリか民間療法があるはずだと、クスリ信仰にひたっている人もいます。治らぬ敵は本能寺ではなく、自分の中にあるのだと言えます。自分の身体と生活で治しきる!と自信を強固にせずして、どうして、やがてクスリの一切を抜くことができるでしょうか。
では、完全にクスリを抜き、社会へうまく適応していった実例を、追いかけてみようではありませんか。
7.Nさんとの出会い
行動医学(7)
喘息大学学長 清水 巍
昭和43年、私が医師になって城北病院にきて初めて受持った気管支喘息の患者さんがNというおばあさんでした。やせた枯木のような姿で喘いで、死を覚悟していました。耳朶より白血球の種類を調べるストリッヒをひき、初めてみる好酸球(血液の酸性とは一切関係なく、アレルギーの反応で増える)の数々にビックリした記憶が、今も新鮮に甦ってきます。やがて元気になり発作は全く消失し、この患者さんから、重症の喘息でも治ることがあるのだと教えられました。
大阪にいる時から呼吸困難と喘鳴があり、砂糖を入れた牛乳を一日2回程飲んで、息をつなぎ、金沢にいる娘と姉と頼り、死ぬなら金沢で、とやってきたのだそうです。どうやって汽車に乗ってきたのか、想像もつきませんでした。ベッドの上で横たわるNさんは、生けるミイラでした。しかし、ネオフィリンの入った点滴、ステロイドの投与でやがて回復をみました。「なんてよく効くクスリでしょう」とプレドニンの錠剤を額に押し戴いて飲む姿を見て、ステロイドって効くんだなと教えられたものです。
やがて、元気になったある日、病室から激しい口論が聞こえてきました。大阪から来た長男と、互いに罵(ののし)り合っているのです。大阪のN電鉄の組合活動家だという長男は、私にも感謝の言葉はなく、迷惑だというような趣旨を語って、大阪へ帰っていきました。イヤな感じを受け、Nさんにどういうことか話を聞こうとしましたが、口唇をふるわせ、興奮されており、それどころではないのでやめました。
その後も語りたがらないので、聞くことをひかえました。金沢にいるという娘さんにもついぞ会うことはありませんでした。何か家庭内にゴタゴタがあると察知されました。
Nさんは退院後、姉さんの住む長屋に同居することになりました。その後、何回か発作の悪化で入院したり、外来で点滴、静注を受けましたが、次第に発作の程度は軽くなったのです。姉さんはリウマチを患い、長屋で一人暮らしをしていました。姉を助けながらの長屋での生活は、ほのぼのとしたものがあったようです。
リウマチの痛みがひどいということで往診に行き、ついでに喘息の妹さんも診てくるのですが、半畳の玄関の、そのまた半分のスノコ板を越えると、和気合々とした雰囲気が感じられました。この長屋での共同生活の中で、頻発したという発作がウソのように、どういうわけか消失していったのです。
8.転地療法の意味
行動医学(8)
喘息大学学長 清水 巍
何回か入院をくり返しながら、外来で点滴をしながらも、少しずつ軽くなっていったNさんでした。長屋の回りの人々とも、貧しいながらも仲良く助け合っていたようです。リウマチの姉さんを車椅子に乗せて、時々、外来に来ました。お二人を見て励ますと、「先生のおかげや、あんなひどい喘息が治ってしもうて」と二人は感謝の言葉を述べるのでした。
ブロンカスマ原液(細菌ワクチン)による減感作が効いたのかなあ、私どものおかげかな、本当は何でよくなったのか、自然治癒かな、と当時からボンヤリと考えていました。私が初めて受持った症例だけに、この最初の患者、Nさんはどうしてよくなったのか、思いはいつも、そこまで戻るのです。そのたびに、その時の認識水準で解釈していたことは確かです。これを行動医学という立場からみるとどうなるか、最近また考えてみました。そうすると、何だかスフィンクスの謎が解けたように思えてきたのです。
大阪では長男、あるいはお嫁さんとうまくいかなかった―喘息がひどくなり死ぬのを予感した―ご飯も食べず、娘と姉のいる金沢に一定のトラブルを経て逃げて?きた。娘は嫁(とつ)いでおり受け入れてもらえなかった―しかし、病院と最後的には姉の家が傷ついた身体と心を癒す安住の場となった―という推理が浮かんだのです。
“転地療法”という言葉があります。Nさんは、まぎれもなく転地によってよくなったのです。大阪から金沢に逃げてきたのですが、それは、生き抜かんがためでもありました。下手をすれば、大阪にいても金沢に来ても、死んでしまったかもしれません。新しい生活を始めることによって、病院の適切な治療によって、金沢でよくなったのです。15年後の現在、健在であり、10年間、発作は全くありません。しかも、長男のいる大阪の家に戻って生活しているのに。
転地がきっかけでした。転地療法は古来からよいと言われ、また、転地しても治らない、種々のドラマを喘息の歴史に刻んできました。一般には気候が変わり、アレルゲンが変わるというのが効果の要因と考えられてきました。もっと大きな要因がありはしないでしょうか。そうです。環境が変わるので、生き方、生活が変わってくるのです。心機一転、シャンとして副腎皮質ホルモンも分泌されてくる。そういうことがあるのではないでしょうか。
新しい生活で、行動パターンで、自律神経がバランスを回復し、副腎皮質も身体の細胞も活発になる―これは行動医学の核心に迫る考え方です。あるキッカケを契機に人が変ったようになるということはよく知られています。心が変わり、考え方が変わり、生活を変えていくうちに微妙につかまえられてくる自信回復、健康感の再生、甦える昔の健康だった時の気魄、それを大事にして増やしていけばよくなるのです。治らない、よくならない人は、そういう真理を信じようとしません。愚痴な自分にしがみつき過ぎていると言っても過言ではないでしょう。
考えてみれば小児喘息の両親と患児をひき離す療法(parentectomy ペアレンテクトミー)と転地療法は共通する点があるかもしれません。両親や家庭から離し、施設や病院へ喘息の児童を入れると発作はみごとに消失するというのです。有名な実験ですが、今度は患児を家において食事を届け、親をよそへ移してもよくなる児童があったということです。
こういう話が全てだというのではありません。そういう大人、喘息児もあり得ると語っているのです。何故なら、環境に不適応になっている、あるいは甘えすぎて、ドップリ首までつかって動きがとれなくなっている人がいるからです。
しかし、転地した先の医療機関が、ちょっと適切でなかったらどういうことになるでしょう。いよいよ、自分は本物の重症だと思うことになるでしょう。
転地の意味を居ながらにして獲得することは不可能でしょうか。Nさんをもっと分析してみることにしましょう。
9.Nさんの回復
行動医学(9)
喘息大学学長 清水 巍
姉を助け、姉に感謝され長屋の人々と楽しく暮らし始めたNさんは、次第に発作が軽くなりました。しかし、喘息友の会に入会されました。そして、会合があるとは出てきて、“命ないものと金沢に来たこと”“今、よくなって嬉しいということ”を、皆んなの前で語りました。金沢火力発電所反対のビラまき(喘息友の会主催)の時は、大和デパート前にタスキをかけて出ました。その時の『通行人の一人一人にビラを手渡しされていた、お婆』を、私は忘れることができません。県への陳情の時も、よく出てきて下さいました。Nさんらの年老いた会員や役員らの陳情・努力の効あって、県も小児喘息の無料化や会への補助に、大へん力を入れて下さるようになりました。
Nさんはこうした生活の中で、確実に発作が出ないようになったのです。やがて、金沢にいる娘さんのとことも、行き来が始まり、とうとう大阪に帰ることになりました。“大阪に帰ってからも元気だ”とリウマチの姉さんから話を聞くことができました。
それから五年程して、Nさんの金沢にいる娘さんと私は、出会うことになります。苗字が違っていますから、二年程気がつきませんでした。何の機会だったか「私はNの娘です。あの当時はお世話になりました。母は元気です。」と言われてビックリしてしまいました。だって、そうでしょう。その娘さんも二年前から喘息で私の外来へ通っておられたのです。「へえーッ、あのNさんの娘ですか。そう言われれば顔が似ている。」と、私は人を見る目の無さを改めて再確認しました。「母は先生のお世話になってから、本当に信じられぬぐらいよくなりました。大阪でもう10年過ぎましたが、一度も発作を起していません。少々呆けましたが・・・」という話を伺いました。
お孫さんと、幸せそうなNさん
(金沢の娘さんの家で)
そこで「お母さんの写真ありませんか」と尋ね、戴いたのがこの写真です。金沢のお孫さんと一緒に写したもので、バックは、娘さんの嫁いだ家です。とっても幸わせそうではありませんか。フックラとしていて、私が始めてみた時のやせた枯木のような瀕死の面影は微塵もありません。リウマチの姉さんも10年後の今、健在です。長屋では一人暮らしをしています。この写真をくれた娘さんも、もうここ2年、発作がないのでしょう。外来には見えません。
Nさんは何故回復し、甦(よみがえ)ったのか、最初のよくなった患者さんでもあるだけに、思いはそこまで戻っていきます。
10.悪い環境 良い環境
行動医学(10)
喘息大学学長 清水 巍
空気の悪い大阪→嫁と息子との折合いの悪い環境→そこでの喘息発作→喘息を治すことに熱心ではない医療機関、これをグルグル回っているとどうなるでしょう。食欲はなくなり、疲労し、喘息は治らず、悪い循環、ジリ貧になるでしょう。”喘息のせいだ”とか、”仕方がない”と諦めたら、今日のNさんはなかったのです。
ジリ貧のらせん階段から死ぬなら金沢でと、空気のよい金沢へ→姉や長屋の人との暖かい人間関係、→喘息を治すのに熱心な医療機関→発作の少しずつの軽快、この良い環境サイクルにスイッチが切り変ったのです。
P・ハーシの「行動科学の展開」という訳本の263ページには、らせんをどう回るかによって、高くもなり低くもなるという図が載っています。この図をジーット見ながら考えて下さい。皆さんの人生そのものが、有効サイクルであった筈です。しかし、どうでしょう。中には中間のとこで同じところをグルグル回り、低くなったり高くなったりで終わっている堂々めぐりの人も、今はいるのではないでしょうか。どう、うまく有効循環サイクルのスパイラス(らせん効果)に入っていくか、それは他力本願ではダメです。あの世へ行くか行かないか、それが極楽浄土か地獄かは、他力本願だとしても、現世の社会で、他力本願や諦めは最も低い期待、低い業績に他なりません。自分の心と体の主治医は自分、自信になります。自分の自信が心によい影響を及ぼすから、ステップとなって、上へ上へと上っていけるのです。
先日、鮎の友釣りの本を勉強していたら、友釣りは「循環の釣り」だと言い切る著書に出会いました。いかにして最初の囮(おとり)を釣るか、そして、循環をよくすることで釣果が決まるというのです。森羅万象、ことごとく、この循環の考え方が「摂理」なのかも知れませんね。P氏は悪い循環に、Nさんは良い循環に、人生のドラマは下と上に別れていったのです。明暗はかく別れるのです。
ところであなたは、ここまで読んでも「フンフン」で終わりでしょうか。もっとよくなるために何ごとかは開始しないのでしょうか。感想や意見を聞かせていただけませんか。