強く生きるための医学(その1)

1 実家の影響からの脱却・その一

強く生きるための医学(1)
喘息大学学長 清水 巍

気管支喘息を治すためには、人間がいかに行動するかが大切であると考え、心の影響シリーズ・行動医学を連載してきました。書き終えるにあたり、次のシリーズをどうしようかと考えていた時、北海道のある方から「強く生きるための医学」を連載して下さいとの投書を受けとりました。医学がそういう“強く生きる”という生き方まで関与して欲しいとの願いがあると感じました。
精神医学とか、行動医学とか、心療内科とか、いろいろな医学の分野はありますが、強く生きるための医学などというのは聞いたことがありません。しかし、喘息をよくし治しきろうと患者さんと努力を重ねるうちに、喘息を治すということは身体と心を治すことであり、生活を改めていくことであり、生き方や考え方を治して強く生きていくことだと確信するようになりました。
次の図をご覧ください。

喘息は身体と心の上に現われるものであり、生活は生き方や考え方によって支えられています。
“行動医学”は生活の仕方、行動を問題にしましたが、更に、底辺にある生き方や考え方について医学的に問題とする挑戦をしてみたいと存じます。
一例を挙げて考えてみましょう。
この前、女性の喘息患者ばかりの部屋で、次のような話し合いが行なわれました。みなさんそれぞれの人が、自分の旦那に対して不満があるというのです。子供が小さい時は子供に愛情や関心が注ぎこまれていて、そう旦那にストレスを感じなかったのに、子供たちが結婚したり、それぞれ自立したら、急に欠点が目に付くようになり、無性に腹が立ってくるようになったというのです。カッカカッカとくるので、つい、突っけんどんになったりして、よけいぶつかり合いが多くなり、つらくなって喘息がひどくなった、というわけです。
どうして、旦那に不満を感ずるのでしょうね?と問いかけてみました。すると、「男性というのはこんなふうにあるもの」と思っていたのに、違っていたというのです。
「こんなふうとはどんなふうですか」と尋ねたら、「アッ、そうです。」というのです。
みんな異口同音に父親のような男性ばかりかと思っていたというわけです。
「じゃあ、皆さんが旦那に腹を立てているのは、父親のようじゃなかった、というただ一つの理由で不満に思い続けて来たんですね。」
「そういうことになりますね。」
という会話がなされたのです。
「先生も娘さんがいますか」
「ええ、一人いますよ」
「可愛いいでしょう」
「そうですね」
「先生の娘さんも、男性は父親のような人ばかりと思うようになりますよ。可愛いがれば可愛いがる程、娘は父親の方にベッタリとなってしまう」
と教えられました。
「私の父親はこんなに酒を飲まなかった」
「私の父はもっと真面目に働いたし、稼ぎがあった」
「私の父は、もっと優しく愛情があり、威厳、権威があった。ウチの人ときたら、モウ、イヤになるわ」と、こんな話なのです。
何の事はない、旦那はいつも奥さんの父親と比較されていたのです。旦那が奥さんの父親をよく見て、知っていればまだよいでしょうが、旦那は旦那で自分の父親と母親の方を詳しく知っているのですから、自分の父親像と自分を比較して、まだ自分の方はいい方だと思っているのです。自分の母親の眼を通して、嫁さんである奥さんを見ていますから、「何で、ウチの女房は自分に不満を持つのか分らん、母親が無条件の愛を自分に注いでくれたようには、ウチの嫁さんは無私の愛を注いでくれない」と思っているわけです。こういうのを“同床異夢”と、言います。お互いに気がつかず、喜劇として進行しているうちはよいとして、悲劇となったり、破局に向うということさえあるのです。
女性は父親を通して始めて男性を知り、男性は母親を通して女性を知るのです。その初めての出会いと関係が、互いに自立を促す依存となればよいのですが、愛情の心の絆が分離されていないと、いつまでも「実家のようでなかった」ということでストレスを発生させねばなりません。
この話は、昭和61年3月の鹿児島での講演でも紹介しました。体験発表の時、涙を誘う立派な発表をなさった女性が、集会の後の懇親会で次のように話をしてくれました。
「清水先生の話を聞こうと、前に座って意気込んでいたのですが、先のような話をされた時には、思い当たることばっかりで、恥ずかしくなってしまいました。後の方に座って小さくなって聞いてた方がよかったと思った程です。」
旦那さんも懇親会に来ておられ、「私が悪かったと反省しました。自分の実家が理想、絶対だと思い込んでいたことに気づかなかったのです。つらい思いをさせたのかもしれません。反省しました。」
と語って下さいました。お二人の間の娘さん(小学四、五年生か)が、母親の手を握りながら、父母の顔、私の顔をつぶらな瞳で見較べていましたが、嬉しそうな顔をしていました。
実家の影響からの脱却と、独立は、強く幸わせに生きていくために必要なことではないでしょうか。
女性の場合の旦那との関係を、父親を通して見てきたことを書いてきましたが、嫁と姑、舅との関係にも、実家の場合との比較や、影響が色濃く反映されているのです。人間に、誰しもが生まれ故郷・ふる里があるように、心のふる里があるのです。
心のふる里―それは、生まれた家、育った家、実家ではないでしょうか。そこで受けた人の影響と現在を、もう少し次回で探ってみることにしましょう。

2 実家の影響からの脱却・その二

強く生きるための医学(2)
喘息大学学長 清水 巍

夫婦の間にもそれぞれ実家の影響が持ち込まれます。下図は今度5月15日以降に出る”喘息よ、ありがとう”(合同出版)の64ページに出てくる図ですが、幼少期(乳児~幼児)と少年期が人生の基礎になるのを示しています。
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生家(実家)で過した、この基礎の時代はやり直すわけにはいきませんから、人生にはもろに影響が持ち込まれます。その途中で結婚する夫婦は互いに互いの少年期、幼年期に思いを馳せて“相互理解”を深め合わないと、衝突したり喘息に逃避したり甘えあったり、かばい過ぎになったりします。よかれかしと思って言ったりやったりすることが、補完に終ってるばかりで、支え合いになっても変革を促さないで終ってることもあります。身を寄せ合うのが夫婦であり、困難に立ち向かうのが夫婦なのでしょうか。互いの少年期、幼年期に思いを至らせ、心を寄せ合って、互いの人生の根幹に共同で立ち変革を促し合うことも必要な条件ではないでしょうか。
夫婦の場合でさえ気がつがず難しかったりしますので、嫁と姑、舅との関係、養子、養女と親、婿と親、小姑との関係、先妻や先夫の子供との関係などになりますと、そんな人達の幼年期・少年期の根幹にまで理解を深めてはいられないということになってきます。そうすると表に出たとこだけを見て反発したり腹を立てあう、悲しがったり悔しがることになってきます。どちらも自分の過去の思いや考えを金科玉条にし、判断の基準にしますから(それぞれが自分の実家や根幹を引きずっていますので)“共に天をいだかず”“宿命の対決”の心境になったりします。自分ばかりがよくて相手が悪いと思ったり、自分は最高の嫁・姑だとほめてほしいのにどうしてあの人はこうなのかと悩まなければなりません。身近な人間関係でのストレスが喘息の人の最大の問題になっていることが多いようです。レーガン大統領がどう発言しようと、中曽根首相がどう言おうと、本当は世界や日本に影響が大きいのに、そのために喘息発作を起こすという人は不思議といないのです。
身近なとこにストレスの原因があるのですが、実はそれは他人のせいや種々の外因のせいではなく、ストレスに感じる自分を自分が修正できなかったり、納得して解決解消できぬことに最大の問題があるのです。自分で自分の思考を変えるということは大変に難しいことです。しかし私は性格を変えろとか、習性を変えろと言っているのではありません。性格や習性を変えるということはもっと難しいけど、せめて考え方を変えることはできるのではないか、と言っているのです。
互いの実家や根幹に思いを寄せ合って、考え合っていくことが必要です。結婚式などに両家の親族やそれぞれの友人が寄り合うという意味も、単に顔合わせとするのではなく深い意味を考えねばなりません。患者同士の付き合いにしても、根幹に思いを寄せて付き合ってほしいと思います。あの人にああ言われた、あの人はああなんだと衝突、離合集散をくり返し、ストレスの火の玉が、頭の中が燃え上がっている中年女性患者群に出会うと、表面ばかり見ないでもっと根幹を理解し合って欲しい、視野を広げて欲しいと願わずにはおれません。そうでないとすぐまたストレスで一杯になり、頭が燃え、喘息が起ってしまうからです。
では、人間を理解しあい、強く生きていくためにはどうしても幼年期まで、生まれた家や赤ん坊の時の育ち方にまで逆のぼって自分や他人を考えてみる必要があるのでしょうか。
そこでの影響は何故、強いのでしょうか。
第一は、生まれたばかりの子供の脳は柔軟で、非常に刺激を受け易いということが挙げられます。ちょっとしたことで泣き、訴え、あやされたり、愛情ある行為によって感情は鎮められます。その体験のくり返しが感情の基礎を作るとさえ言われます。一例を挙げてみましょう。日本人が何故、特攻隊として飛行機で体当たりして空の花と散ったり、人間魚雷の“回天”で海の藻くずと消えることができたかという研究があります。欧米人では考えられないというのです。一説によると、日本人はおぶわれて育つので、母の背の暖かさを知り、安心しきって成長するからあんなことができたというのです。“天皇陛下万歳”ではなく、“お母さん”と叫んで死んでいったと“きけ、わだつみのこえ”という本に書いてありましたが、高校時代に読み、そうだったのかと胸を打たれた記憶がありますが、今、思うと、母の背に戻る“願望の叫び”だったように思えます。だから日本人は強いのだ、逆に言えば狂気じみて恐い、一人よがりであると言われるゆえんであります。戦争とか特攻隊にまで影響したのですが、これからは平和とか、健康、人間の幸わせとの関連で、乳児、幼児の感情体験や育て方が研究される必要があります。
第二に、人間の脳の発達という特徴によります。生まれたばかりの赤ん坊は身長の三分の一ぐらいの部分が頭です。相対的に頭が一番大きく、手足や胴体は小さいのです。年と共に胴体や手足が伸びますが、頭の大きくなるのは一番相対的に遅いのです。大脳の中味について言えば、生後の体験によって脳細胞間の連絡路は形成され、白質(大脳の中心部)という部分が、人間個人の根幹としてまず発達します。この大きな深層の上に、後から大きくなってくる灰白質と呼ばれる新皮質―記憶や判断、思考が発達してくるのです。従って、幼少期の影響は無意識の世界に沈んで、存在し続けるためそう簡単には消せないために、強い影響を発揮するのだと言えます。
第三に、反芻(はんすう)されるためであります。無数の体験があったはずなのに、一才、二才頃の記憶と言うのは普通は僅かしかありません。よほど感動が強かったか、たまたま島状に残ったものです。三才、四才の記憶とか、父、母を始めとした回りの人の話というのは、人生の途上で何回も思い出すものであります。思い出した時点で、消えかかる記憶とその時の感情体験が反芻されるために、新鮮な光を浴び焼き付け直されて残っていくのです。
以上、三つを挙げましたが、このような理由によって、生まれ故郷や実家の影響は強くその人の一生に影響を及ぼしていくのであります。
ある独身の若い女性が手記を書きました。自分の父と母は、弟ばかりを可愛がって私に愛情を注いでくれなかったという趣旨でした。それで、どうも発作を起こしては愛情飢餓感を満たしてきたようだと言うのです。
(彼女がどうして落ち込んだのか、その後どうなったか―は、次号に書きます)
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3 実家の影響からの脱却・その三

強く生きるための医学(3)
喘息大学学長 清水 巍

10分おきのボスミンの皮下注射で、お尻も腕も青ぶくれに腫れたことがあるという彼女は、小さい頃、人形と遊んだり一人遊びだったそうです。弟が生まれた後、父母は弟ばかり可愛がっているように思えてならなかったというのです。ローレン・ピッカーさんに似ているので、“わが心の旅路”という本を勧めてみました。
“わが心の旅路”という本を読んだら、あのローレン・ピッカーさんは少なくとも父母からの愛を注いでもらっていて喘息になった。ウラヤましいし、この本を読まなきゃよかった。私の場合は違う。私は小さい時から愛に飢えて育って喘息になった。だからもう治らないのではないか、ピッカーさんの本を読んで、はげしく落ち込んでしまった、と言うのです。「読むことを勧めた先生をも恨みます」と発作に喘いで、涙を浮かべて言うのです。彼女の幼少時期のつらかった思いの琴線が、昔と同じようにいたく刺激されたためでしょう。
「そんなにあなたのお父さんやお母さんは愛のなかった人ですか、よいところが少しはあったはずです。よくしてくれたことを書いてみて下さい」と言って離れました。翌日の手記は、ニッコニコ顔で恥かしそうに渡しながら、「日本一の父と母でした」と言うのです。
さらに次の日、「父さんと母さんが電話口で、早く元気になって帰っておいで、待っているよ」と言ってくれたと、涙を浮かべながら、もう退院しますと言うわけです。父母の影響から自立しきっていない問題と、喘息患者特有の一面的な「物の見方、考え方」という問題(よくなればもう大丈夫、治ったんじゃないかと言い、悪くなると悪い方へとしか考えが及ばず、そういう自分に気づけない)の両方がありますが、両面を理性的によく見て、自立していくということが、この若い患者には必要です。それが実家の影響からの、脱出です。感情を理性的にコントロールしていく力を身につければこの患者は喘えがなくてもよくなることは、想像して頂けるでしょう。ハウスダストで吸入誘発されRASTスコアも4と高く、アトピー型ですし、スルピリンで大発作になる解熱鎮痛剤型喘息でもあるのですが、実家の影響からの脱却と自立とで、頻回、重症の発作を起こさないようにすることが出来るのです。
父母の影響からの脱却と自立、実家の影響からの脱却と自立、これは、小児期からの喘息のみならず成人になってから発症した喘息の人にも必要なことです。精神的に依存から脱出して自由になれれば、半分ぐらいの日本の喘息の人は治るのではないかとさえ思います。とらわれの心理から脱出できないために喘息になったという人は実に多いのですが、とらわれの心理に陥入り易い人というのは、実家の影響、父母からの何んらかの影響にもとらわれており、それを打ち破ることが出来ていないために、その後に起ったことにもとらわれやすいという相間関係が成り立っているのです。ですから、父母や実家からの影響から、本当の意味で自立できれば、今現在とらわれていることからも自由になれるし、喘ぎ息する喘息で表現しなくともよくなるのです。
自らが内科の医師であり、医師となって結婚し子供もできてから喘息を発症したK先生に手記を寄せて頂きました。城北病院に患者として入院されながら、医師の目で自立をはかり、自分の喘息を克服される展望を身につけられただけでなく、日本中の喘息患者を治せる医師としてスタートされました。先生のご好意で掲載させて頂くことにしました。

1 はじめに
母との葛藤に悩むみなさんへ、何らかのお役にたてばと、この手記を残していきます。

2 私の先祖と両親のこと
母から聞いた記憶にある限りであるが、父は愛知県の○○市の旧家の出である。父の祖父にあたる人が、当時タバコ栽培で財をなし、二代目が散財した結果、父の育った家庭は、裕福な中にも一家団らんに欠けるものだったらしい。父の母にあたる人が、“金よりも家庭が第一”と常々言い続けていた為、父は、家庭を第一にする人となった。
当時、日本は高度経済成長に入る昭和30年代。仕事より家庭の幸せを念頭に思う男が、一橋大学を卒業したとはいえ、熾烈な競争の都市銀行の中で出世するのは不可能であった。一方、母は、専門学校を優秀な成績で卒業し、家庭科の教師としての免許をもって父と結婚。
六人兄弟の末っ子に生まれ、母親から充分な愛を受けながら、早く親と死別した父。片や、五人兄弟の第三子に生まれ、充分な愛情を両親から受けたことがない母。「兄弟なんて、多いとつまらないものよ」といつも言っていた。母はおそらく、子供に充分な愛を注いでやる母親像を心に描いたであろう。もし母が、賢明な頭脳と情熱を自分(彼女自身)にかけていたら、当時、「優」ばかりで卒業したこの若き教師は、銀座に一軒ぐらいは店を持っていたであろう。又、父が、やはり家庭的に平和を望む女性と一緒になっていれば、中流ながら満足した生活を送れただろう。

・・・・・・・・・・中略・・・・・・・・・・

5 (私は)母の期待どおり医師となったが、初めて母の意志に反し、自分の好きな外科医と結婚した。母はその結婚に猛烈に反対した。
最初は姑たちと別居していたのだが、子供ができて双生児だった為お風呂のこともあり、姑たちと同居することになった。再就職し(出産で職場を退職していた)この頃より夜間咳き込むことが多くなり、子供が保育園で熱を出し、看病と仕事で無理が重なってしまった。自分で検査、投薬を続けたが、遂に職場で倒れ入院となる。入院は足かけ四年の間に今回で五度目である。
入院した時、実家に連絡しても、母の性格上、どういう展開になるか想像がつくのであきらめている。点滴を受けながら、“病を苦にして自殺”する人の気持ちが、初めて理解できた。又、母のしてくれたことに報いず、自分の意志を通した為に罰を受けたのか?と思って涙が出てしまった。今回も「母に会いたい、母に会って事実を理解してもらい、許してもらいたい」と思うことが、何回も頭をかすめた。
(私は)母に要求している自分の気持ちをくみとってくれない母。その母をどうにかしたくて、できずに煩悶している自分に気づいたのである。
“母の期待通りになれず、罪悪感に苦しんでいるんだなー”そして、その代償として、発作によって解消している自分、の姿に気づき、救われない自分の姿に哀れになり、悶々としていた。そして、(意を決して)回診の時に、率直に清水先生に気持ちを述べたのである。

4 母の影響からの脱却

強く生きるための医学(4)
喘息大学学長 清水 巍

率直に自分の気持ちを述べると清水先生から、「償いはもうすんでいるのですよ。あなたがそういう考えでいる限り、お母さんも、いつか(あなたが)自分の方へ帰ってくるのではないか、という気持ちを捨てきれずにいるのですよ」と言われ、その時、本当にそうだ、と思った。
母親によって作られた人生脚本を、破ろうとして破れず苦しんでいた私。子供はいつしか成長して親の希望と異なる道を歩みだす。それが自然なのである。人生とは早かれ遅かれ、多かれ少なかれ親の脚本と違うことがおこるものであり、それを仮に“悲劇的なあやまち”というのであれば、自分で自分を責めていること自体が大きな“悲劇的なあやまち”と言えるだろう。先生からのご指摘のとおり、昔の自分と訣別して、自分で選択した道をゆっくり歩みだそうと思っている。

ここまで育ててくださったお父さん、お母さん、本当にありがとうございました。私の考えが、結局、見果てぬ夢をみさせてしまったのですね。そして、この境地まで導いて下さった清水先生をはじめとする医療スタッフの皆様、同病者の皆さん、ありがとうございました。今年、喘息大学七期に入ります。あせらずに、たゆまず、完治にむけて歩んでいきますね。
では、また。

<コメント>

素晴らしい自立への手記となりました。
“自立”と“連帯”、これは私の抱いているテーマですが、自立が完全にできてこそ、よい連帯、協力・共同が可能になると信じています。
よき自立、よき親からの自立は、親をも幸せにすることなのであります。多くの人が変わっていき、そして、最後に変わる人が母かもしれません。それでいいのです。
“してもらう”から“してあげる”への脱皮は、母の脚本ではなく、Kさん自身が自立を遂げて、母をいたわり、父をいたわる側に回って、変化を楽しめばよいのです。逆に育てる立場、対等の立場に立てばよいのではないでしょうか。
生のKさんの自立、独立の記は同じような人に目を見晴らせることになるでしょう。更には、K先生自身が、喘息をコントロールすることに成功されるなら、日本中の医師と患者に、大きな勇気や確信を与えることになるでありましょう。
成功を祈ります。
昭和61年5月7日 清水 巍

このK先生が医師として、患者として、喘息大学七期生として入学されました。
先生は、新入生を代表して、次のように宣誓されました。

宣 誓
風薫る五月の半ばをすぎ、清水先生をはじめ優秀な医療スタッフの方々、頼もしい先輩の皆様に、本日こうしてお会いでき、かつ、入学を許され、心からうれしく思うと共に、向う四年間に喘息を治そうと決意しております。
私は、自ら医師として、ここ数年(自分の)喘息を治そうと努力して参りました。検査伝票を切り、ありとあらゆる血液検査をし、薬をかえ、何かアレルゲンがある筈だと焦りを感じていました。しかし、意に反して、検査結果から原因は指摘できず、日々悪化してゆく病状に、信頼しているはずの検査データーにも疑いをもつようになってきました。
遂に、恥も外聞もふり捨てて、四月に城北病院に一ヶ月お世話になりました。
備前理事長及びコンサルタントの方々から、「喘息は治る」「心を変えなくては、病は治らない」と悟され、同病の患者さん達との交流の中で、“薬では治り得なくなった人”が改善してゆく姿を確認して参りました。と、同時に患者として、又、医師として、医療に必要な“人の力の強さ”を感じました。
すばらしき先輩の皆様に恥じないよう、四年間皆で力を合わせ、“あせらず、たゆまず”完治への旅立ちにむけて、今、出発いたします。
これから大波小波がうちよせて来ることでしょうが、それを自分で越えていくことこそ喘息に打ち克つ道と信じて、この道からはずれることなく、努力してゆく所存です。
どうぞ、何とぞよろしく御指導賜りますよう、お願い致します。
昭和61年5月19日喘息大学七期生 新入生代表 国井 晴子

素晴らしい自立の手記となりました。国井先生の手記に教えられる点は次の三つです。第一は、母と共に歩んだ自分の過去の思いから自分で分析して自分を解放したということです。第二の点は、自ら医師として喘息を見つめながらも城北病院の第3病棟に患者として入院され、医師の目と患者の目と両方で成人喘息は克服し、治し得ると確信されたことです。第三は、それを証明すべく喘大七期生として入学され、新入生代表として“宣誓”を引き受けて下さったり、手記の公開をおまかせ下さったりしたことです。医師も患者も一体となって成人喘息を克服せねばならないとしてあゆんできた喘息大学が、七年目にして到達した頂点ともなるような出来事です。
しかし、同時にそれはこれから新しい峰の頂点を目指す4年の歩みの出発でもあります。実家の影響、母からの影響を脱却して新しい自分を完成されていく道を前進することであり、患者と医師が一体となって医療をよくしなければならないという道を前進せねばならないのであります。私は、喘大七回交流会の最後に「患者さんが病んでいるだけではない。日本の医療スタッフも病んでいる。両方の病を治していく一つの実践が喘大の使命である。」
と訴えました。国井先生が範を示されたように、喘大生、卒業生、全ての患者、並びに医療スタッフの一人一人が、積極性を発揮すること、それは、日本の医療を甦えらせることなのです。
実家の影響、母からの影響から脱却して自立をはかり、どんな試練にも前向きに対処していけることが大切なのです。親に甘えれなかった、可愛がれなかったという人の自立は早いようです。一番難かしいのは、ベタベタと大きくなっても甘え、都合が悪いとは逃げ込む、それを、“どうしようもない”と訴える人達です。自らの中にある甘えを凝視できなく、困っていれば助けてもらえる―この問題を、次回から考えてみましょう。

5 「甘え」の問題

強く生きるための医学(5)
喘息大学学長 清水 巍

小さい時に父や母に安心感を持って育てられたかどうか、―これは、とても大事なことです。親、特に母親に十分愛されて育つかどうか―始めて人間が人間として出会う人ですから―長じても大きな影響が出てくるのは当然でしょう。
Mさんの手記には、こんな光景が描写されていました。「母親のそばで店番をしていました。ある時、お客さんがおつりをもらわずに帰ってしまったのです。母はすぐその人を追いかけて走って行きました。私はビックリして母の後ろを追ったのです。泣きながら母を追いました。気づいた母は、帰りなさい、とこわい顔をして言うと、私にもう見向きもせず客を探しに行ってしまったのです。私はどうして店に戻ったか覚えていません。暗くなった店で泣きじゃくりながら不安と恐ろしさに耐えていました。以来、私は本当は母のそばにいつもいて甘えていたかったのに、それを押し殺してお利口ぶるよう振舞ってきた様(よう)です。」
この出来事一つが「甘えれなくなった」根源ではないにしても、いつまでも思い出されるところであるとすれば強烈な印象を残したのでしょう。以来、このMさんは満たされぬ“思い”を胸に抱いて生きていくことになります。いや、その満たされぬ思いをいつか取り返そうと、胸の中をかきたてながら生きてきたのかもしれません。夫が職場に出かけても不安だったり、いつもと違ってくると不安となります。片方ではお利口さんでありたいが、片方では甘えていたい、いつもいつもそばに誰かいてほしい、いてもいつかいなくなるかもしれない―この根源には「分離不安」(親から離れる不安)が払しょくできないのです。
「お利口さん―と呼ばれたく、ついつい本音を素直に出せず、大きくなってもそういう自分を修正できず」喘息になってしまったという人は多いのです。「本当は甘えたかったのに、甘えれなかった」という満たされぬ思いと、お利口さんの仮面、―その裏では泣いている自分―その二つを同居させながらどちらが本当の自分か調節できない思いが、喘息を起している場合があるのです。親に捨てられたくない、親に嫌らわれたくないという思いが背景にあります。
子供の時はそれでよいのですが、大人になっても、分離不安、愛情飢餓、甘えの要求が残ると、いつまでたってもその部分を満たそうと努力してしまいます。Mさんも母親に「あの時以来だ」と問い詰めました。年老いた母親は、「そんなことあったかもしれないけど、私は覚えていない。今頃、そんなこと言われたってどうしようもない」と言いました。当然でしょう。問題は、その時の傷を癒やそうといつまでも、見果てぬ夢、幻影を追い求めることです。心の中を見つめては「過去の満たされぬ思い」を感じて発作を起す人は多いのです。
ところが「甘えれずに育った」という思いの人は、意外と喘息から脱し易いのです。何とか耐えて生きてきた経験があり、他人との関係で愛に気づき代償させることが可能であり、遅かれ早かれ過去にこだわっていても仕方がないと『時間という最高の妙薬』が傷を癒やしてくれるからです。“喘息よ、ありがとう”の本の110ページTさんこそ、甘えられなかった点で最高であり、難治性だなあと思っていたのですが、今では見事によくなられました。Mさんも一年で随分と良くなり、Tさんさえ非常によくなったということになると、甘えれなかったというのが背景にある人は、やがて治り得るということです。
小さい時に適度に甘えれたり、普通に育ったという人の場合、喘息が治りやすいのは言うまでもありません。自己調節しやすくなっているからです。
問題はドップリ甘えて、都合が悪いとは喘息を起こし、いつまでも喘息に甘え、医療スタッフに甘え、クスリに甘え、家族に甘えてしまう人のようです。こういう人は大脳皮質の新しい部分では、甘えたくない、甘えてはいないと信じ込んでいます。しかし、少し深い部分やブラックボックスと呼ばれる大脳皮質下の領域になりますと、しっかりと甘える週間が根を張っています。そんな根っ子に気づいたり、それを変える斗いよりは「もっとよいクスリはないか、医者はいないか、よい方法はないか」、「ああだ、こうだ」といって点滴したり、喘息を起したり、ステロイドを使っていた方が最終的には楽なのです。何故でしょう。自分に自身がなくなっているからです。
ところがそういう人の中にも最近よくなる人がでてきました。城北病院に入院していても不安から発作となって二度も意識を失い、窒息状態になったIさんは、発作、また発作、吸入、静注、点滴のフルコース(注参照)でしたが、もうスッカリ自信をつけて点滴とおさらば状態となりました。自分の足で歩くことにより、自立できる自分を磨いて自信をつけたのです。一年かかりましたが、「甘え」を克服し、喘息から脱出して東京へ七月一杯で帰れそうです。その陰には旦那さんを始め、Dさん、喘大生、多くの人の陰ながらの力がありました。
「甘え」と喘息にドップリと浸りきっていた人も自立し、城北病院で見ちがえる程よくなる序曲として、祝福したいと思います。
「甘え」という言葉や概念は西洋にはないそうです。土居健郎著「甘えの構造」(弘文堂)という本は一読に値しますが、「甘い」という色々な意味から発している日本特有の概念だとしています。「すねる」「ひがむ」「ひねくれる」「うらむ」(喘息の人にままある感情)は、いずれも甘えられない心理に関係しており、「ふてくされる」「やけくそになる」は「すね」の結果起るのだそうです。ひがむのは「自分の甘えの当てがはずれる」ことであり、「気がね」「わだかまり」も甘えと関係があるというわけです。
全てを“甘え”のせいにするつもりは毛頭ないのですが、喘息の人のみならず、日本人の全てがこの「甘え」の問題を一度は考えてみる必要がありそうです。「足るを知らず、足らざるのみを見る」というように、「思うようにならない」という事態ばかり見つめてしまい、「甘えたくなってしまった」ことが喘息の一因になっていないか、現実からの逃避に甘えている部分がないか検答が必要です。
強く生きていくためには、「甘え」の問題が必要なのですが、どうすれば喘息に甘えないですむか考えてみましょう。

(注)フルコース
当直した小児科の先生がこの前面白いことを言っていました。飲み屋にはウサを晴らすため「一本つけてくれ、二本つけてくれ」と客が集まるが、ウチの病院には、「静注一本」「イヤ今日は点滴二本、三本つけてくれ」と、フルコースを求めて大人が集まる。というのです。

6 「甘え」を一掃するために

強く生きるための医学(6)
喘息大学学長 清水 巍

強く生きていくためには、「甘え」の克服が必要なのですが、どうすれば喘息に甘えないですむか一緒に考えてみましょう。
喘息とは「どういう病気なのか」ここでもう一度、振りかえってみます。
喘息という病気はアレルギー疾患であり、アレルギーとの接触によって誘発される。アレルギー体質は持続するけれども、気道の過敏性と結びつくと発作になり、発病する。これが一般的な学説でした。それはそれで正しいのですが、ただ、私は色んな文献や著名な医学者、教授の本も読みましたが、果たしてそれだけなのかと、幾つかの疑問を感じていました。ハウスダストが原因として多いにしても、何故、夜中や暁け方に発作が多いのだろう―それは丁度、その時間にハウスダストが寝ている人の口ぐらいの空宙層に濃厚に分布しやすいからでないか―という本もありました。それならベッドにするか、押入れにでも入って寝るか、高くすれば大丈夫なわけですが、どうもそれだけで発作がなくなるようには思えません。
第一に、入院中の患者でダニの少ない環境のベットに寝ている患者が、毎朝、発作が出るというのが納得いきません。暁け方だけハウスダストが気管に入るとは考えられないわけです。その数時間前に気管に入ったハウスダストが遅発型で、暁け方にきまって発作を起すのも信じられませんでした。
では、まだ解っていないカビ、ウィルス、などのアレルゲンがあるのだろうか。米の中にいるゾウムシの成分がアレルゲンになるなどの報告もあって、それが日本人の喘息の原因なんだろうかと考えたこともありました。それとも食品の成分に何か?大気中物質の何か?か、自己抗体が血液中を巡っているからか、色んなことを考えてみましたが、納得がいかぬわけです。
第二に、成人喘息の人は、IgE(アイ・ジー・イー)が低い人が多く、血液中のRAST(ラスト)の抗体は0の人がとても多いのです。感染と添加物や薬品だけが原因とも信じられません。
それでは気道の過敏性―これが問題だということになってきます。夜中や暁け方は副交感神経が優位となって、交感神経との交代のバランスが崩れて、気道の過敏性が高まると言うわけです。私も患者さんにそう説明してきたのですが、本当にそれだけかとこれまた幾つかの疑問を持っていました。
一つは、喘息の人は、発作が起きない時期と頻発してくる時期があります。調子のよい時は気道の過敏性はないのか、副交感神経は暁け方に優位になったりしないのか―という疑問です。
二つ目には、入院患者さんに気道過敏性テスト(患者さんの中にはイヤがる人もいる)を経過を追ってやるのですが、鍛錬や自省療法で随分とよくなって退院する頃になっても、あまり変わりない人が多くいます。
三つ目は、“気道の過敏性”が体質だとすると、アレルギーも体質として結構持続しますし、治らないという結論しか出て来ないのです。しかし、現実には手記を書いたり、交流療法や喘息大学で、よくなってくる人が沢山います。
そうすると、喘息の発症や慢性化、あるいは悪化や治療には、”アレルギー体質(解熱鎮痛剤に過敏な人も含めるとして)やアレルゲン”と”気道の過敏性”を調節する”第三の因子”をクローズアップさせなければなりません。気道感染やカゼにしても、生まれてからこのかた何回も出合ってきて、喘息が今頃に出てくるとすれば、この”第三の因子”を想定した方がよさそうです。
増減はくりかえすであろうけれど、決定的には0にならないであろう体質因子に対して、調節因子と言えるかもしれません。体質因子がたとえ変わらなくても、調整因子、すなわち第三の因子の力を増してやれば、喘息は起こらなくなるであろうということです。抑制因子とか抑止力という言葉で、古くからそういう説もあったのですが、この第三のファクター、因子に深い思いを寄せることで、喘息の説明や治療が納得いくように、現在の私には思えるのです。
喘息は「甘え」だけから起こってくるなどと、毛頭、言うつもりはないのです。アレルギーや気道過敏症はある―それは減感作やインタール、種々の治療で減らせばよい―しかし、それ以上に第三因子の改善、調節力の復活こそ最大の課題ではないか、ということです。セルフ・コントロールが大事であり、自分こそ主治医なのです。治らない、治せない半分以上の責任は「自己のコントロール力量の不足」にあるのではないでしょうか。

喘息に甘えないためには、自己コントロールの力量を高めることこそ必要なのです。
ところが、生い立ちの中で「甘え」にドップリつかってきた人は、「自己変革」や「自己コントロール」がなかなかできないのです。ついつい何でも頼ってしまうのです。クスリに頼り、ステロイド、ケナコルトに頼り、他人のせいや天気のせい、カゼのせい、何でか分らん、と、自分を特別にしてしまうのです。何とかしてもらえる、これだけ苦しんでるんだから許してもらえる、甘えなんかじゃない、苦しんでるんだから助けてほしい、自分には力がないetc・・・・と攻め込まれないよう防波堤を作って自分を守ってしまいます。
「真実を見つめると、人間の目はつぶれてしまうだろう」という言葉がありますが、しかし、「喘息への甘え」は「自己コントロール力量の不足である」という真実を見据えずには絶ち切ることはできません。ここで甘えていたのでは回復が遅れます。どん底に落ちないとハイ上がれない―という言葉がありますが、甘えている人は、どこかでまだ何とかなると思っているのかもしれません。どん底に落ちていないからまだよいのか、落ちていてもそう思っていないのか、いずれにしても今の段階から、”第三因子の改善”に向って努力を開始すべきです。

この第三因子・即ち調節因子の低下が喘息悪化の原因であるとするなら、それは、徐々に徐々に起こってきたことに気づくべきです。より低下する方向にネジが回転し、気管がネジれるように狭くなっていると考えるべきです。どうすればよいか―逆ネジ方向に努力を開始することです。今までと180度異なる方向で努力を開始しましょう。180度異なる自分を作ることによって、ネジがゆるんできます。正常化するのです。
ここを「甘え」をなくして持続的に、根気よくやることが、必要なのではないでしょうか。リラックスできる方向に逆ネジをくらわす―これが根本的な改善策のように今の私には思えるのです。

7 逆ネジをくらわす一つの方法

強く生きるための医学(7)
喘息大学学長 清水 巍

 逆にネジを回すようにすればよい―と頭では分ってもどうすればよいのか、分らない人もいるようです。それで例をあげてみます。
Aさんは名古屋の有名な病院に何回も入退院をくりかえしてきました。入院するとはすぐよくなったので「早上りのAさん」と呼ばれていました。ところがだんだん早上がりでなくなってきたのです。「これじゃいけない」そう思ったAさんは主治医に相談しました。主治医は快よく「城北病院行き」を認めてくれ、紹介状を書いてくれました。Aさんはこれまでもあちらこちらの有名病院を転々としてきましたが、家族の勧めるままにしてきました。「心配かけているんだから、これ以上のわがままを言っちゃいけない、よいと言われている有名病院ばかりだから、そのうち治るだろう」そう思って従ってきたのです。
しかし、「今度だけは自分から選ばしてもらった」と言って金沢に来たのです。このことは後にも述べますが、とても重要なことです。城北に来て色々な検査を受け、手記も書きました。内因性喘息であり、心因や生い立ちが関係していることが手にとるように、私には分りました。色々とコメントを書き、指導もするのですが、なかなかよくならないのです。通常の薬物治療は勿論のこと、教育、鍛錬、交流療法、そして、自省療養まで入ったのですが、軽快しません。胸にはいつも痰があり、ヒューヒューゼーゼーがあるのです。点滴をしても、ステロイドを使ってもとれないのです。
Aさんの手記には喘息発症の前には、大きなストレスとなる問題があったことが書かれていました。そのせいで喘息になり、治らなくなったと思っていました。その点も話し合いましたがよくなりません。
Aさんの喘息の根っ子は幼児期から少女期にあったのです。小さい時から「お利口さん」「よい子」「大人しい子」で通ってきて、母親や父親の胸をたたきながらふところに入って泣きじゃくりたいことがあっても、それを抑えてきたのです。弟より自分が可愛がられるためには「我慢をして、よい子でいなくっちゃ」と必死に思って生きてきたわけです。成績がよかったり、絵がうまかったり、字が上手だとほめられました。
そういう成績や頭のよさ、社会的経済的な地位や能力が人間の価値なんだなと思ってきました。自分と違う人を見ると、「どうしてあの人はああなんだろう」と対抗意識を持ったり、比較したり、相手を値引き(ディスカウント・・・・・・自分を高く評価しておきたいために相手の価値を低くく見ること)したり、心の緊張が絶えないわけです。心の緊張が絶えないし、身体も緊張しきっていること、疲れきっていることに気づきませんでした。
回りの人が手記を書いてよくなったり、書かずともよくなったりするのを見て、カーッとなったり、負けたように思ったり悔やしがっているのに自分では認めておらず(意識上では自分がよくならないのはどうしてかと意識しているだけなので)そのことを表情にも言動にも出せませんでした。とうとう発作がおさまらなく、薬物も効果がなくなってきました。そういう時、ノートに自分の心の中で思っていることを全部書いていると少しは楽なことに気づきました。ノート⇔医師によるコメント、これだけが呼吸のできる唯一の道(自分の本音が出せる道)でした。矯正療法の段階に入っていたのです。ノートには本音を書きなぐるようになっていました。
その最後の方には「一人になりたい。思い切って泣きたい。他人と話をしたくない。個室に移してほしい」と書いてありました。『ベッドにはカーテンを引き、話しかけないでほしい』とシャットアウトしているのに、心配そうに声を掛けてくる、もうたまらない。個室で思いっきり泣かして・・・・・・と要求していました。
名古屋から城北行きが第一の自分の選択、大部屋から個室行きが第二の自分の選択であったのです。個室に移るや婦長さんに「泣いてもいいの」「泣いてもいいの」と確認しながら大声で泣きじゃくることができました。入院が長期にわたりましたが、理解をして支えてくれた人がいました。旦那さんです。「もう帰りたい。城北にいてもよくならない。とってもつらい」とTELした時、「家のことは心配するな。今が君にとって一番大切な時だ。帰っちゃならない」とキッパリ言って下さったそうです。小さい子がいるのに。旦那さんも偉いし残ったAさんも偉いと思います。
個室で思いっきり泣き、入院して始めてグッスリと眠れるようになったAさんの胸からは喘息が消えました。ようやく肩肘を張って生きてきた自分に気がついたのです。ずーっと自分の本音や本当の要求を口に出したり、実行して来なかった自分に気がついたのです。そういう自分を認めることができず、これまで乗り切ってきた方法―体面をとりつくろったり、頭で切り抜ける方法、クスリや点滴で切り抜ける方法―を城北に来てからも続けていたのですが、限界が来たのです。それを自分から恥も外聞も捨てて打ち破ったのです。体面をとりつくろおうとはしないAさんに生まれ変わったのです。
逆ネジをくらわす生き方の獲得を、Aさんはこのように実現しました。

そうか、個室という手があったのか―と思う人もいるでしょう。もっと早い段階にAさんを個室に入れたら、「他人はどう思うだろうか」と気になって、こんなによくなる道を把むことはできなかったでありましょう。ギリギリの自分から、逆ネジをくらわして生きようとする切り換えが、渾身の力を振り絞って発揮されないとダメなのです。
名古屋から自分から選んできたこと、自分から自分を生かす道を探りあてたこと、これらによって、逆ネジ的な生き方が始まったのです。家族から勧められ、イヤイヤ来る人、家族のために来たんだというような人は、自分を変えるのがイヤになって逃げ帰る人が出ます。自分から諸困難を乗り越えてどうしても来たくて来たという人は、殆んどがよくなって帰るようです。
鮎にたとえて恐縮ですが、琵琶湖産の鮎の放流にしても、川に自分から遡上したのを捕獲して放流したのと、湖をまだウロウロしているのを捕獲して放流したのとでは、成長が全然違うのは釣人の常識です。

医師や家族、産婆さんに見守られながらも自分から世に出る力が満ち、母親のいきみに力一杯、頑張れよと送り出され、産道の皮膚マサツを受けながらオギャーッと泣いて出る、呼吸をし始める、愛を受けながら自立して生きていく、この生命誕生と発達の原理、原則は、喘息治療の根幹と何とピタリ一致していることでしょう。こと、それ程に自分からというのが大切です。

8 人は三度(みたび)自立する

強く生きるための医学(8)
喘息大学学長 清水 巍

「自分から」という能動性が大切なことを述べてきました。喘息の人も「逆ネジをくらわす」ような生き方を、自分からとっていくと、少しずつではあっても大変によくなっていくことでしょう。
生きていくにあたっての第一の自立とは、どういうものでしょうか。それは、母親の胎内から外界に「オギャー」と泣いて、自らの力で『呼吸』をし始め、動き出すことです。
人間にしても、自然分娩で自分で産道をハイ出してきた子と、帝王切開で時期を見てとり出された子では、幼少時期の勢いに違いがあるとの報告があります。人工授精とか、男女の生み分けとかが問題になっていますが、勢いがよいのか悪いのか、自然の摂理をたどって一番先に到達する精子ではなしに、遠心器で分離された底の方の精子(女性を作る×精子は男より重い。男を作りたければ上部からとる)とか。冷凍されたり、ピペットで吸いとり適当に注入されて出来上った子供が、将来どうなるのか、極めて慎重に検討されねばなりません。
この世に「オギャー」と生まれる以前からでさえ、卵子や精子の能動性が大切であり、自然界の生物の摂理は全て、この能動性に支えられています。自分から呼吸し、哺乳する。そして、体力や能力をつけ大きくなっていくのです。第一の自立は、やがて本当に自分の二本足で立つということによって、脳の発達と重量化を支え、行動範囲を広げます。
第二の自立は、自我に目覚め、親に反抗したり、自分で生活力を持ったりしていくという段階でしょう。結婚して世帯を持ち、子供ができたり、孫ができるという段階までこれは続きます。親から精神的にも肉体的にも、生活基盤の点でも「自立」をしていくということです。現在の大人は、殆んどが第二の自立の段階にあるということができるでしょう。この第二の自立も、誰かにさせてもらうとか、してもらうではなく、自分から獲得していくことが大切です。
小児喘息は、その殆んどがハウスダストやダニ、卵、牛乳、犬や猫、花粉、真菌など外因性物質の影響を受けるアレルギー性、アトピー性の喘息です。IgE(アイジーイー)が高く、幾つかのものにRAST(ラスト)スコアが陽性となっています。
(カゼをひけば、その上にウィルスの刺激が加わるわけですから、発作をひどく起こします。外因性の要因を減らすことも大切ですが、水泳などで自分から水の中で泳がねばならなくなり、泳げるようになる。自分の力に自信をもち自己コントロールがついてくる。というのが治るキッカケとなったりします。水泳の皮膚への効果、気管支への効果もあるのでしょうが、《耳鼻科の先生の中には、喘息児にただやみくもに水泳が勧められるので、鼻や耳に炎症を起こすことに”要注意”と指摘する向きもある》体力、気力、自立心の向上が影響するでしょう。)
小児喘息が成人喘息に移行するかどうか、それは第二の自立や自己コントロールがどの程度ついたかと、関係がありそうです。小児から引きついでいるから重症だとか、IgEが高い、RASTスコアが高いから重症で治りにくいのだとは言えないのです。家庭環境や人間関係、社会的心理的因子が重要であり、そこが複雑だったり、幾つも問題があって解決しにくかったり、本人に巧みに乗り切っていくコントロール力に欠除があると、成人喘息に移行しやすくなります。
こうみてきますと、小児喘息の克服には、第二の自立が重要であり、ここでも自分から事態を打開し、乗り切って自信をつけていくことの大切さが伺われます。
今度のアレルギー学会(岐阜)で、鹿児島大学の野添新一先生が報告されていましたが、気道過敏性のテスト(アストグラフ)を治療に使っているとのことでした。大変よい成績で、やっているうちに正常人と同じくらいとなり、挑戦しては自信をつけていった人が、とても自信を持って社会生活を送れるようになったというのです。行動療法として、発作を起す刺激に立ち向って、自信をつけるのです。この一つのことによって、やがて全てに自信をつけることを野添先生は「行動汎化現象」と呼んでおられました。一つの行動で自信がついて、次々と、自信をつけよい方向となるというのです。
城北病院の場合どうでしょう。入院時と、種々の教育・鍛錬・交流・自省療法の効果を見るため退院時と二回やるようにしているのですが、「ありゃ、ひどい検査だ」、「検査を知らせる棒が来ただけで喉がしまる」、「やったからそのせいで点滴をしてもらわなくっちゃ」と、悪い方にしか考えない人がいるせいか、よくなった筈なのに気道過敏性テスト改善の成績があまりよくないのです。これまでは、検査での客観性を保障するため、当方からは特別の説明はしませんでした。「ひでえよ」と悪いウワサばかりが強調され、伝えられていくと、機械を口にくわえただけで気道抵抗が上がったり、ひどい人になると検査をパスするためにかどうか、やる前から発作を起こしたりします。三日も四日も点滴が続くと、あの検査のせいだったということになります。そんな報告は、他の病院にはあまりないのですが。
勿論、私たちの指導や説明不足のせいなのでしょうが、
『この前より一段階上まで行けるよう、腹式で頑張る』とか、『正常人の域まで挑戦してみる』とか、勇気をもってあたってみることが大切なのではないでしょうか。この一例をとっても、「よい方向に考える」とか「自分から挑戦」というのが大切なのです。
では、第三の自立とは何でしょうか。
自分のこれまでの歩みを自分から振りかえり、よい点は伸ばしながら欠陥や弱点は反省し、修正しながら生きていくということです。
成人になってから喘息を発症したという人の場合、第二の自立はできていても、この第三の自立、本当の自立ができていないためというのが多いように思うのですが、いかがでしょう。
健康に身体や精神を生かす―それは、若い時なら誰にでもできそうです。しかし、中年、高年、老年となってきた時に身体は故障しやすくなり、無理が表面化してきます。常に、自分の心の管理、身体の管理、生活の管理に気をつけるべきです。身体と精神を健康に生かしきっていけるよう、これまでの垢や歪みを落とし、内からの可能性に目を覚ましていくこと。これが、第三の自立ではないでしょうか。
「人間は三度自立する」、この三度目の自立を見事にやっていきながら喘息を治し、コントロールすること、そして、より健康に生きていってほしい、と願わずにおれません。

9  喘えがなくてもよい理性、そして身体の管理を

強く生きるための医学(9)
喘息大学学長 清水 巍

「三度び自立する」、そして残された人生の日々を楽しく有意義に送っていくこと。大切なことだと思われたことでしょう。それができれば言うことはないのです。気づいて出来るようになり始めた人もいます。しかし、頭では分っても、どうしてもできないという人もいました。
二度目の自立ができなくて、大人になって生活を余儀なくされているという人は、二番目が不十分なので、三度目がなかなかできません。親に反抗したり、自分を主張して大きくなったという人はいいのですが、(家庭内暴力とか非行というのは、自立というよりは逃避、甘えの裏返しだから、真の自立とは言えない)。自分の思うことを言葉にしたり、行動に移して相手に理解させるということができないと、二度目が済んでいないため、三度目の自立といっても何のことだか分らないのです。
現代の女性にはシンデレラ・コンプレックスがあると言われています。コレット・ダウリングというアメリカの女性の書いた本が、百万部を突破したとされています。女性には「いつか、王子さまか、素敵な男性(恋人、夫、愛人、親、子供)が現われて、自分を幸せにしてくれるのではないか」という願望があるというのです。しかし、それは依存であり、小さい時から“待っていればよい”と教えられた結果だというわけです。職を手にする女性が多いけど、現代のシンデレラは職を手にせねばならず、本質は変らないというわけです。興味のある人は、三笠書房「知的生き方文庫」シンデレラ・コンプレックス(400円)を読んで下さい。
一方、男性にはピーターパン・シンドロームというのがあるというわけです。大人になりきれない男性が増えているというのです。“いつまでも子供のままでいたっていいではないか”と、妻に甘え、母に甘え、社会に甘えている永遠の少年と言うわけです。(ピーターパンとシンデレラ・廣済堂・木村駿・治美共著、980円)
大なり小なり、こういう点がないか自省してみることが必要でしょう。
第二に、最初の記憶、場面(シーン)の修正が必要な人もいます。先日、2才の子供をつれた喘息のお母さんが受診してきました。この子もひどい喘息になったというのです。子供は母の胸にしがみつき、指をしゃぶり、母の髪の毛をしっかり握っていました。恐怖の目つきで私を見ながら、今にも泣きそうにしていました。妹が生まれてからひどくなってしまったのです。「小さな子ができたため、この子をおばあちゃんのとこで寝かせてるのでしょう」と聞くと、その通りだと言うのです。かわいそうに、人生、最初の競争者の出現(妹)におびえて、喘息を起すとは母の愛、家族の愛がもらえる条件反射が成立し始めていたのです。そのことをこのお母さんに話すと、よく分って、感謝して帰っていかれました。
記憶の最初の場面や思いの修正の必要な人もいますし、幼少時期のショックだった体験での思いの修正の必要な人もいます。
第三に、喘息を憎らしい病気だ、やっつけてしまわなければと、受容していない人も、第三の自立ということが分りません。喘息も自分が作り出してきてしまった病気です。自分の分身、いや、身についてしまっている疾病、バランスをとるために出現している症状ですから、それを憎みやっつけようとすることは、自分で自分を責めやっつけようと痛めつけてしまうことなのです。成人喘息コンサルタントの名畑さんが悟すように、「病は真の善知識」とか、備前さんの「アスマ君、もうお見限りかい」というように受け入れ、コントロールしようと思えるようにならないと、第三の自立ができないようです。g09
理性、感情、身体管理、この三つの部分のどこも良で結ばれ、良で戻ってくるように毎日努力が必要なのです。喘息で喘がざるを得ない人は、良の部分よりも、どこかで悪しき部分が上回っていると考えねばなりません。清水先生は最近、とんでもない難解なことを“強く生きるための医学”に書いとる、患者は分らんよ、という人もいるのですが、申し訳ありません。それは、筆力のせいです。但し、裏側には患者さんがモデルになっていますから、共通性はあると思います。自分にあてはめて自分を修正するということは難事ですが、それが可能となれば、少しずつ喘息もよくなっていくし、強く生きていくことも可能となるでしょう。

この秋は、10月の(喘息大学)中間交流会を皮切りとして、沢山の人と出会いました。
10月23日からの日本アレルギー学会(岐阜)では、パネラーとして1題、一般演題として計3題報告しました。その足で東海地区の「わかば会会員」と会食し、懐しい人々の顔も拝見しました。翌日の日曜日(26日)には、三重民医連の学術集談会で講演し、三重(在住)の喘大生、わかば会会員と交流の話し合いを持ちました。二人を除いて全ての会員、喘大生が津に集まりました。そこでの話し合いの結果、来年の4月5日(日)には、三重喘息患者友の会”はなしょうぶの会”が発足することに決まりました。(連絡先=津生協病院)、三重での患者会発足です。
11月1日は四国、高松での講演会です。380名もの人が集まり、大きなホテルの会場が超満員となりました。翌日は、津田会長(さぬきわかば会)以下10名ぐらいの人、(久山君、青井さん、伊藤さんなど、かつての城北病院体験入院者ら)とともに、壇の浦や栗林公園を散策しました。石川県を代表して、私一人がいい目に会わしていただいたようで、申し訳ないやら、感謝の念が溢れるやら、幸福感に浸って帰ってまいりました。
ここでは、何か月も前から患者さん方が一生懸命に準備された話には胸を熱くしました。看護学雑誌10月号に”香川ぜんそく友の会(さぬきわかば会)”が紹介されたことも知りました。石川県での患者や職員の頑張りに負けまいと、全国津々浦々で患者さんが頑張っているのです。
11月9日は新潟県の新津市であおぞら会での講演会、11月21日には、沖縄で行なわれた研究会でのついでに講演会が持たれました。沖縄ではこれまでの最高、400名が熱心に私の話を聞いてくれました。沖縄のあおぞら会とはつらつ会が頑張ってくれました。石川から参加した藤山さんを始め5名が、喘大6期生の稲福さん御夫妻に”ひめゆりの塔”をご案内いただいたり、手厚いおもてなしを受けました。
お世話になりました関係者の方々に、紙上を借りて厚く御礼申し上げます。全国各地で、みんなが頑張っていると印象づけられた秋でした。

10 内面の浄化、強化こそ課題

強く生きるための医学(10)
喘息大学学長 清水 巍

喘息の人はかなり頭も良いし、目、耳、口も悪くありません。そう足腰も悪くはないし、手先き、指先きが悪いということもなく、器用な人が多いぐらいです。綺麗好きだし几帳面でもあります。仕事にしても家事にしてもまあまあであり、人並み以上の方も沢山います。喘息のコントロールぐらい仕事や家事なみに上手になってくれてもよさそうですが、これだけがうまくいかない。それさえうまくいけばあと言うことないんだがと言う人がまだいるようです。
何故でしょうか。外面的な所を人並みに保つということについては必死であり、上手なのです。行動医学(「強く生きるための医学」の前のシリーズ)にも書いたことがあるのですが、外側に向っている眼は正常ですが、内面を見る眼が曇っているというか、ウロコがついていることが多いのです。眼は外側に向っているだけではなく、心眼・内観と言って、内側もキチンと見えなければならないのです。自分が客観視できねばなりません。
母子関係の影響という糸をたぐりながら、男性に多い難治性タイプと、女性に多い難治性タイプの一群を見てみましょう。
まず、男性に多いのですが、仕事は一人前にできるし、会社の重役とか、学校の教頭にまでなっているのですが、喘息だけはコントロールできず、発作が起こってくると幼児のようにパニックになるタイプです。「どうしてこうなっちゃうんでしょうね。一体どうすればよいんですか。何とかして下さいよ」と、全く自分には責任がないし、自分はどこも悪くない、悪いのは医者かクスリだと言わんばかりです。こういう人は、母や親からのメッセージを「男は仕事で成功しろ、あとは何でも後からついてくる。心配するな」と受け取って、ただひたすら馬車馬の如く(問題を単純化する意味での表現で、軽蔑の意で使用しているのではありません)。仕事一途、男の甲斐性を歩んできた人です。子供の問題は奥さんまかせ、身体の管理や人間としての成長、品格、哲学、芸術、自然への同化力の向上や、感情への気づきやコントロールは下手くそなのです。一見すると強いようですが、都合の悪い事態や病気などは、どうコントロールしてよいか分らず、とりあえず隠すことしか考えられません。モロさを持っているわけです。母親や父親から、「今までのお前のようにただひたすら頑張っていけばよい」と言われてやってきたのに、結果は喘息になってしまった。自分の責任ではない。親の責任ではないだろうか。医学の責任ではないだろうか。上司や家族の責任ではないだろうかと、責任転嫁するのです。
母親や父親は「内面も強化しろよ。弱点がモロに出た時こそ、自分を浄化、強化するんだよ」と言外に教えたはずなのですが、社会的体面さえ保てばいいんじゃないかと一面的に受け取って突っ走ってきた人たちです。
女性に多い難治性のタイプは、母子一体感を求め、それを実現しようと喘息を起こし、それが十分得られていないと感じては喘息を起こしているという人です。治っていく側に回るか、治さずにクスリ漬けになりながら、母に甘え、母を責め、自分を責めて母との一体感を求め続けるかの分水嶺は、一体感を求め続けていることに気づき、母からの独立を宣言し、そのことによって母を幸せにしてやろうとするかどうかです。男・女の関係だけが永遠の課題ではなく、母子の問題も喘息患者にとっては、長引く課題のようです。
最近、北海道から来た女性と、京都から来た女性に、母子分離の宣言と決意を込めた自立を引出すことに成功しました。北海道の女性は「母親からこと細かに指示されたことを忠実にやり、娘として親孝行してきたが、もう疲れて喘息になってしまった」と手記に連綿と書きました。京都から来た女性は「母が弟を溺愛したから、家を傾けさせてしまった。母と弟に責任をとらしたい。だけど、母にそれを言うには母が年をとり過ぎてしまった」と、怒りをどこにぶつけたらよいか分らず、喘息になっていたようです。この二人の手記をもとに、私はパールズのゲシュタルト療法の一つ、三つの椅子の技法で、感情処理に成功しました。空の椅子に向って語りかけ、そちらの椅子に座って今度は自分に語りかける。それを通して、自分の本当に望んでいることに気づき、母子分離を感情をこめて宣言したのです。
以上、男女の二つのタイプを挙げ、内面の浄化、強化の必要性を指摘しました。浄化と強化の必要性を自覚し、努力し始めるとよくなります。表情が違ってきます。人間、外面だけで生きるにあらず、内面の力で強く生きるのだと思うのですが、いかがでしょうか。
理性は、本や“わかば”によって強化されます。身体管理も本や城北病院での実際、体験入院で身につけることができます。一番、難しいのが感情処理であり、コントロールです。これが出来ずに苦しんでいる人が意外と多いのです。感情処理と感情コントロール、ここに当面光を当てて勉強してみたいと思います。内面の浄化、強化には必要だからです。
どんな感情でも、十分に発散されてしまっておれば長く残ることはないのです。ところが、発散や除反応がされず、思い出すのも苦痛だからと、無意識の中に押し込めてしまうと、感情がいつまでも無意識の中で生き続ける―とフロイト(精神分析の創始者)は説いています。“認めたくない”とお蔵入りさせた感情や出来事ですから、思い出したり、書いたり処理したりが苦痛なのです。しかし、頭の蔵の中にしまわれた“生々しい感情”は出口を求めて疼きますし、自立神経や気管支を不安にし、過敏にします。これを、手紙や日記によって知り、その処理をコメントやパールズの三つの椅子の技法、あるいは精神分析的医療で行なうと、喘息はよくなるのです。しかし、これはあくまで総合的な医療の中の一環であり、患者さん側の努力、必死の努力が決定的に必要です。他人まかせ助けて欲しいでは成功しません。
内面の浄化、強化こそ課題―これを、わかば会、城北病院にあてはめると、地元の患者の質的強化、内部の浄化、強化が必要です。で、今年から、毎月第3週の金曜日に特別講座を開講します。入院患者だけでなく、外来患者や喘大卒業生もまじってもらい、最高の講義・勉強会を続けていきたいと思います。“強く生きるための医学”のその月の内容をより深く認知できるよう講義します。
全国を強化するため、今、再び内部をしっかり固める―これを実行します。