清水先生初の連載エッセイです。
清水先生が作られた詩も沢山掲載され、先生の心の葛藤、成長等も書かれており、読み応えがあります。
四月
木の芽に
力こもり
大地の息吹き
芽を割って吹き出さん
若葉芽吹き
緑の祭典オープンす
花が燃え
花が散る
桜の花びらに身を重ね
落ちる花、落ちる心に
涙した
あれはいつの日だったろう
高校三年の春
大学に入った始めの年
幾星霜経て今、見る
緑、桜
大地の息吹きだけでなく
私たちと同じ年月の息吹き
年月の息吹き、始めて
咲かせてみたい
四月の葉、花のように
はじめに
新しく連載を始めることになりました。「強く生きるための医学」(昨年の三月号まで六十回の連載)のように、病気をよくしていくことは勿論だけれども、単に病気がよくなるというだけでなく、健康な生き方、悔いの無い生き方ができるよう励ます支えを続けて下さいとの声を多く頂きました。
喘息だけにしぼれ、すぐ役立つものを、臨床例をもっとわかりやすく、「生きがいの医学」等の意見もありました。
では、どのように続けて行けばよいのか?どのようなテーマで書き続けて行けばよいのか?混沌としています。まるで私の人生のようであり、先行きのようであります。少しはものになるのか、役立つのか全く分りません。「一寸先は闇」という言葉がありますが、その言葉どうり不透明感をぬぐうことができません。
しかし、過去、現在、未来、そして私たちの回りにも、見えているものもあるし、暗闇や断涯絶壁、落し穴の他に光るものもあります。光の射している方角もあります。私も小さな時、白壁の手前に突き出した石垣、その狭い石垣に乗っては下を流れる川に落ちないよう、その壁につかまり、石垣を渡るのを近所の子供達と挑戦したことがありました。下に流れる川を見つめ、危い危いと思いながら吸い込まれるように川に落ち、泣いたというような体験をしました。そのように川に落ちたり、劣等感や焦りの底無し沼に落ちたような体験が無いわけではありません。断涯絶壁から下ばかり見ていると吸い込まれるように落ちるかも知れません。病気や症状、劣等感の穴ばかり見つめていると、そこから抜け出すことはできません。
「光りあるうちに、光の中を歩め」というトルストイの小説がありますが、光るものを見つけ、それを見つめて歩いて行くことが必要でありましょう。先行きは混沌としていても、過去、現在、未来、そして回りに「光るもの」を少しでも、一つでも一緒に探していくうちに、光るものが線となり、面となり、回り全体が明るい世界になるのではないでしょうか。
少くとも一年間の間、このテーマで皆さんと一緒に見つける旅をしたいと思います。一年と当面区切るわけは不評だったら、さっさと取り換えようという撤退の準備でもあります。書き始めから撤退を準備する。そして不評だったら葉っぱや花も肥やしにし、次のものに挑戦する。それでよいのではないか、それしか無いのではないかと思うのです。ですから当面十二の光るものを選んでみるということになります。
「愛は地球を救う」とか、「愛は人を変える」と言われますが、愛について先生の考えを書いてみて下さいという要望も頂きました。「真実を求めて」というテーマが良い、先生がこれが本当と思うものを思いっきり書いたら良いという意見もありました。愛とか真実について書ける年齢でもないし、人格も力量も無いことは自分が一番良く知っているのですが、混沌の中で見つけ出そうということに過ぎませんので、触れてまいります。皆さんの声や意見を大切にする―その中にこそ進むべき道があると思うからです。
当年十二ヶ月の旅をするにあたって、素っ気無い旅にならぬよう季節感を冒頭に入れる試みも続けます。混沌の中から作詩できた時は自分の駄作詩を、作る時間が無かった時は有名な詩人の名詩を掲載します。光るものを探す旅に、様式を変え出発しましょう。
1.母親の愛
私は昭和十七年(1942年)五月生れです。戦争へというまさに混沌の中で生れました。
空襲警報のサイレンの鳴る真夜中、母親に起され背中におぶわれました。私の背中には寝んねこと呼ばれるようなものが掛けられ、最初に入ったのは押入れでした。後に聞いたとこによると、サイレンの種類によって米軍機の襲撃の仕方が予報され、投下される爆弾、機銃掃射から逃れるため、なるべく弾の届きにくい押入れが良かったり、外の方が良かったりするとのことでした。私はなんでこんな押入れの下にもぐるのだろうと不思議に思ったものです。
またサイレンが鳴りました。今度は焼夷弾の投下で火事になる危険を知らせるのか、母親は私を背負ったまま外へ飛び出しました。大通りの広い所です。見覚えのある親戚の洋品店のショーウインドゥの前でした。向うから電気を消したままの三輪車(昔のマツダとかダイハツの車)が来て止まりました。暗闇の中で男の人と母親が会話しているのを背中から覗きながら聞いていました。何を話していたのか覚えてはおりません。恐らく大丈夫だというようなことが話し合われたのでしょう。
私も安心をしたのか、その後の記憶はありません。大変だということが分っても不安感は強くありませんでした。母親の背の温みがあり、おぶわれている安心感があったためでありましょう。
父親は出征していましたから、食事は母と二人きりでした。暗い板の間の台所に卓袱台(ちゃぶだい)を出して食べるのが常でした。ある時、山のかたちに盛られた味噌の上に砂糖がふりかけられているではありませんか。味噌は好きだったのでしょうが、富士山の初雪のように頂上にかけられた白い砂糖の何と甘美だったことか。大声を上げて喜びました。配給で配られたからと、私の喜ぶ声を聞いて母もとても嬉しそうにしました。その母の喜んでくれる姿を見て、私も嬉しくなりました。
混沌の中で人が生まれて始めて出会うもの―それは外気であり、この世の光りでありましょうが、母親の愛こそが子供にとって、光るものの最初です。私の一歳の時の記憶や思い出は「必携喘息克服読本」(合同出版)に書きましたから、ここでは繰り返しませんが、私にとっても最初に光るものは母親の愛だったと思います。
孫の合格祝いにと、もう年なのに福島県の喜多方から出てくる母親を見ると、いつまでも教えられるような気がします。
母親との関係でよきにつけ、悪しきにつけ、ボタンを正常にかけ合わさないと、その後ずーっとボタンをかけ違わせていくことがあるようです。そのために苦しむ人も出てきます。
母親は人間の最初の代表であり、自然の身代り、代表でもあります。母なる大地と言いますが、母が大地なら、天なる父と言いますから父は天でありましょう。天なる父と母なる大地は山でキスしあい、海の水平線上で私たちを包みこみ見守ってくれています。
混沌の中で最初に光るもの、それは母親の愛でありましょう。
混沌の中に光るもの(2)
喘息大学学長 清水 巍
五月
若葉、陽の光りに輝いて
蜂が踊る
蝶が踊る
つつじ花咲く
五月
喘息大学に笑顔、集まる
見よ、つつじの花が満開だ
若葉、水の淵に輝いて
石が光る
魚が光る
藤の花咲く
五月
喘息大学に懐しさ、流る
ああ、藤の花が満開だ
若葉、緑の山に輝きて
風が吹く
鳥が鳴く
桐の花咲く
五月
喘息大学に希望、溢れる
そう、桐の花も満開だ
2.家族
第二に光るもの、それは家族です。母親の次に大事な基盤です。
どのような家族の中でどのように育ってきたのかは、その人の人間形成にはかりしれない影響を与えます。そこを知る目的で入院患者さんの何人かには手記を書いて頂いております。第二に基盤となる家族に問題があっても、無くとも、本人がどのように前向きに成長してきたのか、それを知るために手記を見ます。第三に現在の家族関係に問題は無いか、それを調整、解決に気づくよう手記を役立ててきました。
母親との関係でボタンを掛け違えるとズッーと掛け違えが続いていくし、他の人ともうまくボタンを掛け合わすことが出来にくくなることを前に書きました。同様に二番目に重要である家族との関係でボタンがうまく掛け合わせれないと、身近かに大いなるストレスをかかえることになります。
成人喘息の人にしても、登校拒否症、その他病気で入院したり、通院したりしている人の中にも、症状の固定や悪化には、家族関係の固定や悪化が影響している人が少くありません。成人喘息の方の二人の例を挙げてみましょう。
MさんはS県から入院に来ていました。手記の一節です。
「二人の子供のために一生懸命働いてきました。寝たきりの舅、口うるさいわりには面倒を見たがらない姑、私は疲れていました。働いている時間帯だけでも舅の面倒をキチンとみて欲しいと言い続けてきました。でもダメでした。押さえつけてきたことへの反発のためか、全くの見せかけの介護なのです。主人に言っても、主人も父親を大切にしようとしません。お前が面倒みろというだけです。
家の中が暗い雰囲気になった時、主人がサラ金に手を出していたことが分かったのです。どこへ行ったのか家に帰ってこなくなりました。姑は『あんたが悪いから、こんなことになったんだ』と言いました。その晩からです。喘息発作が出ました。始めは薬や携帯用噴霧器、自宅でのネブライザーで何とかなりましたが、静注、点滴をしてもらうようになりました。プレドニンも出してもらいました。でも仕事へも行けない日が出てきます。ニッチもサッチもいかなくなり、私は二人の子供を連れて実家に戻りました。子供を実家に預けて、喘息を治そうと思って体験入院に来たのです。」
光り輝くべき家族、妻も夫も子供も幸わせを育ぐくみ、年寄りを見守り、子供を成長させていくべき家族に亀裂が生じていたのです。Mさん一人の力ではどうにもならなくなったのでしょう。その結果、喘息が起ってきたのです。喘息だけをいくら治そうとしても治せるわけがありません。家族関係を調整し暗雲を払うことが必要です。
Mさんの喘息の原因はダニとカビ、花粉が原因と言われてきました。住居環境が特に変ったわけではなく、悪化していたのは家族関係だったのです。成人発症型の喘息の人は喘息だけを治してくれれば元通り元気に働けると言うのですが、悪化した家族関係や自分の考え方を治そうとしない人が多くいます。
手記を書くことによってMさんは喘息の原因が家族内の重圧にあったことに気づきました。Mさんの場合は御主人が戻ってこないということで、舅を入院させ、姑とは別居し、実家で二人の子供を成長させながら働くという道を決意され、勉強、鍛錬を継続しながら発作無しで頑張っています。
二例目はテレビにも出た青木さんです。城北病院入院中は「あなたはまだ入院していたのですか。とっくに退院して頑張っていると思ったのに」と言われて発作を起し、現実に退院の日が近づくと発作を起し、進むに進めず、退くに退けず、進退極まる状況となりました。「二十点息子、夫、父、患者」でよいではないか、いい格好したいのでつらくなってしまうのではないか、思い煩うことを覆い隠し、他のせいにするのではないかとコメントを加えました。
ようやく、二十点で良いと思えるようになったようです。退院して家に帰ると、家族ってこんなにいいものかと思えるようになりました。娘や息子は一家の大黒柱のおじいちゃんに負けず口答えをします。おじいちゃんは、青木さんには反抗期が無かったので孫が不良になると心配します。そして青木さんの奥さんの育て方が悪いと批判しました。戻った青木さんは浦島太郎のように遊んでいたわけでなく、勉強して戻りましたから家族全体の気持が分かります。お父さんとも気楽に意見を闘わせれるようになり、自己主張できる子供を頼もしいと思えるようになりました。案ずるより生むが易し、東京着地成功のようであります。
Mさんは別居、青木さんは同居でありますが、家族との関係でボタンをよりましに掛け合わせれるようになったことが喘息を改善させました。登校拒否児の親御さんにも手記を書いて頂いておりますが、書く方のお子さんは良い方に動いています。
第十二回喘息大学交流会から、家族の体験交流の時間を設けました。家族の協力、関係は重要です。結婚、妊娠、出産と新しい家族を迎える若い人のために、マタニティーコーナーも新設しました。
家族との関係を整えていくことが大切ですよ―と申し上げると、私はもう終ったという人がいます。現実の家族との絆が清らかで、感謝に満ちたものになっていくことは勿論大切です。しかし過去の思い出の家族との関係で、思い出はそのままにしてしまう人がいます。思い出の中の家族との関係も、現実の家族との関係も、よりましな光を放つものに変化させる努力が必要なのです。その努力の質と量こそがボタンを正常に掛け合わす健康なあなたを作るのです。
家族との関係、絆が過去・現在・未来とも、よりましに清らかな光を放ちますように。
混沌の中に光るもの(3)
喘息大学学長 清水 巍
薔薇
薔薇が咲いている
咲いているだけではない
自然に向って
君に向って微笑んでいるのだ
白い薔薇は清楚に
ピンクの薔薇は恥しそうに
真紅の薔薇は血の情熱を込め
精一杯の微笑を送ってくれる
君はその挨拶を感じてきたか
花を通じての自然の挨拶を
そして挨拶を返してきたか
出会った薔薇に・・・・・・・・・。
また、君の内面に
薔薇の花園を作ってきたか
薔薇は外に向って
咲いているだけではない
自然に向って
君に向って匂っているのだ
白い薔薇は清楚に
ピンクの薔薇は恥しそうに
真紅の薔薇は血の情熱を込め
精一杯の香りを送ってくれる
3.自然
バラがあちこちの庭先に咲いています。枝先に炎がつき、燃えているかのように見えます。
花が自分のために精一杯、咲いているのは当然のことです。その花を見てどう感じるのか、どう考え、どう思うのか、それは各自の自由ではありますが、花ひとつから自然の美しさ、偉大さを学び感じとれるようでありたいものです。「ああ美しい、綺麗だな」、「咲いているだけじゃないか」、目にも入らぬという人もいるでしょう。しかし、花や山、植物や動物、自然から本当のメッセージを受けとり、汲み上げる感性を磨くことも大切だと思います。
私の始めての著書「みんなで治す喘息大学」の193ページに、次のような一節があります。
『ある患者さんがこんなことを語ってくれました。
「川へ行った時、小さな丸い石を拾ってきました。長い歴史と自然の中で丸くなった小石を見ているだけで、あそこの自然を思い出し心がなごみます。喘息発作になると床の間に飾ってあるその石を手にとって、腹式をします。手の平で石が暖まるころ、いつのまにか喘息が治っていくようになりました。毎日、その石を眺めていたら喘息が治ってしまったんです。不思議ですね。」
その人が羨ましいとか、もともと症状が軽かったんだろうと思う前に、「自分はそんな小さな石から悠久なる自然を思い浮かべる余裕があるか」と問うて下さい。一輪の花を見て美しいと感じるかどうか問うて下さい。季節のうつろいを楽しむ心のゆとりを持って下さい。喘息が治ったら持ちます―ではいけません。心のゆとりを持っているうちに喘息がよくなる―そういう関係を理解して下さい。日本の自然には、人間の身体や心を正常化させる大いなる働きがあるのです。』
この患者さんのように、症状へのこだわりを捨て、自然とのやりとり、ボタンのかけ合わせを正常化させていくと、浄められて自然治癒力が溢れてくる筈です。バラの花ひとつ、石ひとつにしても、自然の力を最大限に生かせという本当のメッセージを送っています。
合同出版の喘息の本にはバラの花が表紙についています。「みんなで治す喘息大学」はピンク、「喘息よ、ありがとう」はクリーム色、「必携喘息克服読本」は真紅、「みんなで治す小児喘息」は真紅のバラのつぼみがついています。表紙という些やかなスペースにもバラの花を象徴的に掲載し、喘息という苦しみの中からも、自然治癒力を発見し、健康なバラの花のような人生をと願っています。
「徹夜して物を書いた明け方、最初の光線が窓ガラスに射してくると、私は立ち上がって外をうかがう。もしハッキリ山が見えそうな天気であると、町はずれまで出て行き、そこから遮るもののない早暁の静寂な白山を、心ゆくまで眺めるのを常とした。夕方、日本海に沈む太陽の余映を受けて、白山が薔薇色に染まるひと時は、美しいものの究極であった。みるみるうちに薄鼠に暮れて行くまでのしばらくの間の微妙な色彩の推移は、この世のものとは思われなかった」。さらに「北陸の冬は晴れ間が少ない。たまに一点の雲もなく晴れた夜、大気がピンと響くように凍って、澄み渡った大空に、青い月光を受けて、白銀の白山がまるで水晶細工のように浮きあがっているさまは、何か非現実的な夢幻の国の景色であった」。
山もまた私に自然の素晴らしさを教えてくれます。上の文は読売文学賞を受けた「日本百名山」(深田久弥著―石川県加賀市出身)の中の「白山」の一節です。
上の絵は城北病院の東三病棟多目的室に飾ってある「おぼろ月」の作者、中町進先生(金沢美大教授―私の家のすぐ近くに住んでおられる)の描かれた「白山」です。この「白山」の七作目の絵が副院長室の私の部屋に飾ってあります。私はどれだけこの絵に慰められ、癒され、励まされてきたか分かりません。部屋に入る光線の変化、季節の変化、私の思いの変化や疲れ具合、喜びの度合いによってつも白山の絵は違うのです。しかし、いつも暖かく励ましてくれます。寺井病院に週一回通う時に見る現実の白山が励ましてくれるのは言うまでもありません。巍という字の中に山があるため親近感を感ずるのか、自然の美しさ、芸術性の香りが高いために山に感動するのか、混沌としていますが、絵や文、バラや山から自然のメッセージを受け元気になることができることを幸わせに思います。
症状へのこだわりを捨ててこそ自然から学べるようになるのです。
最後に中国の医師に今年頂いた誕生祝いのバラの詩を紹介して、しめくくりと致します。
贈漢詩一首
五月薔薇満枝頭
紅緑相映傾人目
蜜是春暖清風和
時有夜凉水露寒
姚重華
混沌の中に光るもの(4)
喘息大学学長 清水 巍
初鮎
百万年以上前から
泳いでいた鮎
氷河期をくぐり抜け
生きてきたんだね
卑弥呼の時代にも
重要な蛋白源となった
一年一生の鮎
春の訪れとともに
精子の如く川を遡上し
石を食む
友を追い
石を食む
緑、濃く
日射し暑くなって
今、解禁
胸の高鳴りが糸を伝わり
囮鮎が友を掛ける
全てがしぼりこまれる
今年の初鮎は小振りだった
でも、香りは一緒
川の流れの中で対峙する
恋魚と自分、原始に戻る
頭の中がしろくなる
4.医療
北陸では鮎の解禁日が一番早い福井の日野川へ、後輩の医師や患者さんたちと友釣りに出かけました。九ヶ月以上も前から楽しみに待っていての特別解禁日ですから、一日で九ヶ月分のストレスを川に流してしまった感じです。
ところで一見、通ぶって見えるけど、どれぐらい釣るのかと疑問に思われる方もいるでありましょう。自然との対話、やりとりが問題ですから釣果は本当は問題ではないのですが、多いと評価されるか、たったそれだけかと評価されるか、解禁日は32匹でした。
雨の日は行くのを中止すればポッカリ時間が手に入るし、これまた得をしたような気になります。十月から五月までは行っても釣れないので行くわけにもいかず、楽しみに待つだけにして他のことに打込めるので、私にとっては鮎の友釣りは自然と親しむ季節の楽しみとなります。
医療に打込む、そこまでいかなくとも、継続を維持するためにも自然と親しむ機会を持つことは、メリハリをつける意味でもよいことのように思えます。人間は一日に一度は根に帰らないと健康に生きていくことはできない―と言った人がいます。根の意味するところは「自然」であり、家族や家であります。根に戻って癒され、そこから自然治癒力やエネルギーを正常に汲み上げるパイプを磨いて、たえず自分をリフレッシュさせていくことは皆さんにとっても大切なことであります。
今号は「医療」を考えてみましょう。
医療という文字を「広辞苑」でひくと、「医術で病をなおすこと。療治、治療」となっています。医術、医学の医と、療治、治療の療をとって医療となりました。医という文字の一番最初は「」であったそうです。「」の下の方の「巫」は「巫女(みこ)」に使われているように、まじないをする人とか、魔法をする人のことを意味しています。
上の方の「」は左側の医は箱にいれた矢じりを示し、右側の殳は槍を示しています。外科手術と関連していたのかもしれません。やがて長い年月をかけて「醫」となります。巫から酉という酒を意味する土台が変化しました。酒や薬草を煎じたものが医療につかわれたのでありましょう。まじないから薬へと進歩しました。
西洋での医はMedicine(メディスン)でありますが、この語源を逆のぼりますと薬に行きあたりますし、さらに逆のぼりますとメディスンマンなどの魔法使いやまじない師に行きつきます。東洋、西洋ともに語源的に発達の歴史が共通するということは、人類にとって医学の変化・発達が法則性を持っていることを示しています。
原始時代は精神性や自然治癒力を原点にした。逆に言えばそれしか頼れるものが無かったと言えます。次に草根木皮、薬が出てきたし、外科的な行為も出てきた。その上に近代医学が科学的に打ち建てられてきた―それが現代の医学であり、それに基づいて治療が行われるのが現代の医療です。
混沌の中に光るものとして、母親、家族、自然を挙げてきましたが四番目に医療を挙げました。病を治し、命を救うという点で医療がよいものになるということはかけがえがなく大切です。肉体の健康が維持されることはもちろん大切ですが、精神的にも社会的にも健康になれる医療・社会の充実が望まれます。最先端の技術、薬品、治療法を吸収し患者さんに提供できるようにすることが必要ではありますが、同時に医学や医療がこれまで支えにしてきた原点、精神性や自然治癒力を振りかえり、同じように強調することも必要ではないでしょうか。
日本にも世界にも医療機関や医療行為は星の数ほどある―その星々のように、医療は大切なものとして光っています。その中で私たちの進めている医療も貧弱だけれども小さな星のように光っています。皆さんと共に私たちの進めようとしている医療は、次のような点で光っていると思います。
第一は、医学、医療の進歩を重視するけれども、自然治癒力や人間の側の力も重視するということです。所詮、医術といっても生物の力を最大限に引き出すことで価値が出るのです。医学以前に、母親、家族、自然を強調しましたが、そういう医療が必要とされる医療ではないでしょうか。
「喘息よ、ありがとう」と喘息をよくすることはもちろんだけれど喘息にさえ感謝できるようにならなければならないと説いてきました。喘息よありがとうと言えるようになった人も沢山います。しかし、喘息にしか感謝を口にできない人もいます。喘息をやっているだけでは本来は感謝できません。忌わしい病気にさえ意味を見つけ、克服するよう勧めている医療との出会いがあったから始めて感謝できるようになったのです。そういうことを教えてくれた医療も、ありがとう、そういう医療を大きくしようが本当ではないでしょうか。おこがましくてこれまでは敢えて言いませんでした。
第二に、「患者が主治医」、患者、家族と医療スタッフが二人三脚のように闘病を成功させ、病気をよくするだけでなく、人間も医療も社会をよくしていこうとする世にもまれな医療であるということです。
第三に、そういう医療を広め、充実させるのは、医療スタッフは勿論だけれども、患者さんと家族だということです。大分大学の第三内科の睦(むつみ)会主催の七月の講演会は300名以上の出席が見込まれています。北海道の指導者講習会、秋に続く各地の中間交流会や日喘連の総会も皆さんの力を寄せあって成功させる必要があります。
混沌の中に光っている医療、その中でも小さいけども光り始めた患者さんと私たちの医療、それを大きくするのも、広げるのも、一人ひとりの力から始まるのではないでしょうか。医療をよくすることに参加してこそ、自分も他人も救われるのではないでしょうか。
医療は受けるだけのものではありません。共に作るものです。「白山」の一節です。
混沌の中に光るもの(5)
喘息大学学長 清水 巍
5.友情
「私は世界に二つの宝をもっていた。私の友と私の魂と。」
ロマン・ロラン(仏の作家)
友情はかけがえのないものです。七月二十七日(土)には私の小、中、高時代からの親友、故珠玖拓治(しゅくたくじ)福島大学経済学部教授を偲ぶ会が福島市で開催されました。早いものでもう一年が過ぎたのです。昨年の”わかば”七月号に”悲しみを越えて”と題し書かせて頂きました。ずーっと忙しいスケジュールが続いていましたが、早朝に発って深夜に戻る汽車の旅で出かけました。彼との関係は何ものにも換えがたかったのです。
彼がいかに秀れた論客であり人であったか、彼の高校三年の時の文を紹介してみましょう。同じ校友会誌に私は「我も李徴なり」(みんなで治す喘息大学の25ページ)を載せていますが、難しいだけで片づけないで下さい。高校三年生の魂が書かずにおれなかったものなのです。
◆東洋ライン
Ⅲの5 珠玖拓治
黄河遠上白雲間
一片孤城万仭山
差笛何須怨楊柳
春光不度玉門関
「涼州詞」王 之渙
黄河を逆上ること幾千里、大きく迂曲してゴビの砂漠を過ぎりその水面は天に盛り上って白雲の間に没する。目に映るものというては赤茶けたむき出しの岩膚と吸い込まれそうな深緑の空。荒涼たる天地には暫し物音さえも絶えてなにも聞えない。涼州発って数百里、敦煌を経て関は玉門に至る。関外に一歩を踏めば、そこは即ち砂の海タクラマカン。春の暖かい日ざしはもうここまでは届かない。
書斎で作られたこの詩が、千二百年後の僕達に、果てしない空想と尽きない寂寥感を与えてくれる。しかし、この寂寥感こそかの李白等の描いたねっちりとした華やかさの裏である。
管弦楽の「ペルシャの市場」を聞いてみる。さわがしくて、活気のある市場、奇術師、曲芸師、五色の蛇をあやつる蛇使い、美しい王女とその従者。渾然として織り成す華やかな、ペルシヤ絨緞のようなその光景から潮の引くように響きが絶えて、元の静けさにもどっていく。
― 中 略 ―
リムスキー・コルサコフの「スペイン奇想曲」にしても、ビゼーの「カルメン」にしても、溢れ出る情熱と軽快なスピード感に満ちみちている。しかしここにおいてもまた、特に後者には「無」的なものが感ぜられる。
― 中 略 ―
とにかく、沖縄―中国―(西城)―サマルカンド―ペルシア(バクダード)―スペイン(マドリード)の間には「東洋ライン」とでも呼ぶべき何かの連りがある。日本は広い意味で中国に属する。
― 中 略 ―
我々は古代に憧れる。これは唯、それを二度と見ること、またその中に二度と入る事が出来ないからなのだろうか。
(福島県立喜多方高校校友誌『桜壇』№91961年3月発行)
彼への追悼と偲ぶスピーチを、宗次郎の「大黄河Ⅱ」の曲と海のシルクロード(センス作曲)の鎮魂曲をバックにかけながらやりました。音楽をこよなく愛した彼(彼の文中から分かりますように)のための集会に、音楽ひとつかからないのは耐え難たかったのです。
経済学者や大学教授、弁護士さんらが多かったのですが、ビックリされたようです。学術的で論理的なスピーチが続いている中でのことですから当然ではありましたが、それでも、とても感動されたようです。次にスピーチに指名された方は、「こんな後にやるのですか」と絶句されていました。高校時代の恩師は目を真赤にされ、ハンカチのあてっぱなしでした。
こちらは喘息大学での精神統合や毎月の講座でのイメージ療法でやりなれていることですが、違う畑の人にも新鮮な感動を呼ぶことが分かりました。私のスピーチの全文は割愛して、恒例によって一編の駄詩だけ載せます。
友の一周忌
天地渺々
惜別詩
珠玖君
君は今頃
必ず行くといった
あの中国を旅しているかい
東洋ライン
陸のシルクロードを
辿っているのだろうか
それとも海のシルクロードを
辿っているのだろうか
ああ、ありし日の
君の温顔が浮かぶ
どの一コマさえも暖かい
沢山の青い思い出有難う
君の友情の花は世界に咲き
僕の友情の花は日本全国に咲く
真夏の星のようだ
60人の参加者は口々に彼の友情の濃さを語っていました。彼は全国だけでなく、世界に友人を作りました。天に咲いた星のように友情の花を咲かせていたのです。そして東洋、西洋に向って大きな仕事を為そうとしていました。
しかし、31年前(高校)までは私が彼の友情を独占していました。逆に言えば、たった一人と心を通わし、真の友情を磨きあうことができれば、後に多くの友情の花を星のように咲かすことができるということを部語っているのかもしれません。
長々と友人の文を引用したり、昨年に続いて彼の死を悼むのは、「たった一人のことでも大切にできる者が、多くの人をも大切にできるようになるのだ」ということを語りたかったからです。いたらぬ私も日本各地の医師や患者さんたちと友情の花を咲かせれるようになったのも、若い時からこういう秀れた友人との切磋琢磨のおかげではないかということを記したかったのです。
だとすれば秀れた全国各地の患者さんや医師・医療スタッフ、知人と友情を磨きあうことが本当の意味で深化できれば、また互いにとって素晴しい未来が作れるのではないかと最後に言いたいのであります。友は世界の宝であり人生の宝です。そういう友をかつて、現在、皆さんはお持ちでしょうか。
福岡での北九州地区喘大中間交流集会、加南支部のバーベキュー、大分での講演会、北海道指導者講習会と講演会、8月2日(金)3日(土)と大阪で開催される400人から集まる「食と健康のシンポ」に招かれての特別講演にしても、患者さんと友人の医師の斡旋によるものです。講演が終ったら一日ゆっくりして下さいと、北海道の患者さんがお金を出しあって下さり木津先生、加南支部長の宮傍さんと洞爺湖畔のホテルで一泊しました。湖上に打ち上げられた花火ひとつひとつの美しさに魅せられました。患者さん一人一人の友情が夜空に咲いて語りかけてきているように見え、胸が熱くなりました。
これから、関東、東北、東海、北陸、関西、四国と続きます。どこ一つとっても仇やおろそかにしたくない、そういう私たちの思い、皆さんの思い、それは医者と患者という関係を越えた友情です。私は親友を失って、多くの人々と友情を見直す必要性に気づきました。
「混沌の中に光るもの」の第五に友情を掲げました。友情を磨きあうことによって、残された未来をよりよくすることが可能になるのではないでしょうか。そういう友情を作ろうではありませんか。
混沌の中に光るもの(6)
喘息大学学長 清水 巍
6.書物と感動
九月
空の青さ
透明に
湖のように広がれり
煙り立つバーベキュー
ものともせず
肉と野菜
これが静注と点滴のあの
喘息患者なのだろうか
みな健康で美しく見ゆ
九月一日は二百十日、本来なら台風が来て荒れる日だというのに、わかば会金沢支部(こだま会共催)のバーベキューは台風一過、カラリと晴れ渡りました。患者さんと医療スタッフの心がけが良いと、天気も晴れてくれるのでしょうか。
焼き、食べ、飲み、かつ談笑する患者さんを見ると、本当の意味で自然に戻ることができるならば、喘息は治ると確信できる光景でした。自然の中に帰ると、自然治癒力が最大限に発揮される状態になるのでありましょう。
ここで垣間見せた治癒の可能性を、自然の場だけでなく、城北病院の東三病棟、外来、全国にいる患者さんの現実の生活の場で実現するためには何が必要なのでしょうか。色々あるでしょうが、「よい刺激をたくさん受け、たくさん与えあっていく」ということが大切です。自然の中での体験、各地の中間交流会や講演会、体験入院、喘息大学への十三期生への入学、よい刺激を持続的、あるいは間歇的に受ける場に身を置くことが大切です。
秋はバーベキューのように御馳走を食べ「天高く、馬肥ゆる秋」だけでなく「燈下親しむ候」でもあります。書物からも持続的・間歇的に、よい刺激を受けて欲しいと願っています。書物から受けた感動というものは、人生を歩む骨格を作り、骨格を変える力があると思います。肉や野菜は血肉とはなるでしょうが、人生を歩む骨格は作りません。書物はその人の人生を豊かにしたり変革する栄養であります。前号で友人の高校三年の文を紹介しました。親友と書物のおかげで今日があります。
私の高校二年の時に書いた文を掲載します。今号は第一楽章、第二楽章、来月に第三楽章と続きます。自分の感動した文のイメージを音楽に乗せるのは高二から始まったのかもしれません。
ピアノ奏鳴曲第一番 ホ短調
”感動”
Ⅱの2 清水 巍
若し年若き輩にて純粋なる
愛慕の念を失はばその遼遠な
る地上の生活はげに呪われた
るかな。
―三太郎の日記より
第一楽章 「甘美」
Allegro con brio
昭和三十二年七月二十七日
眠そうに古時計が九つ打って余韻が残った。虫の音が高い。寝床に仰向けになっていた私は今迄読んでいた一冊の文庫本をバサリと置いた。心臓のドキドキは全身で感じられた。胸にある一冊の本紙とインクと糊とでできている本。自分は又取り上げた。・・・・・・
十時が鳴った。余韻が残った。長く残った。消えなかった。いつのまにかジーンという音になって残っていた。・・・・・・
俺の顔が笑っていた!!
さっきから俺は満面微笑を浮べて居た。確かにそうだ。本を読みながら仰向けになってニヤニヤしていた。気付いて驚いた。フト窓の外に誰かいやしないかと考えた。誰も居ない。安心した。一人ニヤニヤしているのを見た者があったとしたら彼は私を気違いのように思ったろう。しかし誰も居る筈がなかった。便所に行った。頭が一杯だった。
・・・・・・自分はページをめくっていた。・・・・・・
おう!胸に広がり来るのは何か。広がる。広がってくる。忍びやかに沁み渡る。
相好を崩した顔の筋肉。全身一つになって脈打つ。・・・・・・
恋の味。すっかり全身を浸してしまった。幸福感。幸福。し・あ・わ・せ。俺は幸福だ!何と気持ちの良い小説だ。
心にはポッと灯がともっていた。武者小路実篤著「幸福な家族」表紙はこうだ。この紙と糊とインクが自分をこうさせた。奇蹟、否、これまでだって度々起こったではないか。否、否、無かったぞ。始めてだ。こんなに陶酔的境地に入れたのは一度だってありあしなかった。
おい!良かったなぁ・・・・・・。
全行に満ち溢れる愛、人間愛、武者小路の人格、素直な素朴な武者小路の性質、天賦の文才、それ等が融合されたこの作品、「幸福な家族」は私をもある境地へ、甘い、何物かへの感謝に満ちた、しみじみとした世界へ誘ってくれた。荘厳にまで高められた中に幸福がある。甘美な匂いに暖かく包まれながらしみじみと高価なひとときを味わった。
地上最上の幸福は人格である。
―ゲーテ
「読んだ後、作った詩」
乙女は恥かしげにさし出した。
「何さ、これ。」
「恋の実よ、知らないっ」
頬を桜色にふくらまして
ソツと顔をむけた
歯に沁みとおる、その味は、
おゝ!
何と甘美なことか。
第二楽章 「怒り」
Andante con moto
昭和三十三年六月五日
背表紙はカスれた障子紙。高校の図書館にあった本。表と裏の表紙が二本のセロハンテープで連がれている。二本の障子紙の上に色あせたインクが「きけわだつみのこえ」と綴っている。ボール紙の裏表紙が上部でセロテープと泣き別れ、不恰好に突き出ている。その泣き別れたセロテープは黒くごみをつけよじれて隣の本にくっついている。僕の手に乗ったその本は今度は僕の書棚に置かれていた。
僕はくらあい気持ちになった。目の前が暗くなったような気もした。小説なんかに出てくる通り、色々複雑な感情が次から次へと刺激され高ぶってきた。チクリ クワー チクリ クワー パラリチクリ クワー クワー 頭がカッカッとなる。この一魂の肉塊に何が起ころうとしているのか。張りつめられて苦しくなってくる自分の感情がバイオリンの弦となった。ハーブとなった。琴となった。弦は振動し、打ち震え、妙えなる、せつない美音を生んだ今やテンポは急潮となり乱打され、高潮した。何を求めるのか。地駄を踏み突き破ろうとする胎動。益々激しい潮のうねり、どうなる、ふんぷんたる悲哀の匂い、苦々しい悲哀の味、悲哀のうしお、渦まく潮、
きけ!わだつみのこえ!
死を、己れの死を、数時間後に控え、ピンピンした頑丈な肉体を持ちながら、何故々々の上空で肉弾突撃、特攻、嗚呼、死の確定してしまった学徒特攻隊員、花の大学生が最後に残した手記。もう何時間何分後は此の世に居ない。この精神作用、己れの精神作用は永久に止まってしまうのだ。若き血潮は空中で木端微塵、飛び散って今の此の肉体すら失くなってしまうのだ。そうして海のもくずとなる。その考え!彼等の最後の手記を読む俺。ひしひしと胸を打つ壮絶さ。絶対の死の前の彼等の姿。悲痛。「オトウサン オカアサン ネエサン イロイロアリガトウゴザイマシタ。ボクハモウロクジカンデシニマス。・・・・・・
何たる非業、何たる非業!淡々と続くカナの文章。ここでこうして居る俺に途轍もない罪悪を犯したような気分が起ってくる。でも俺なんかまだまだ甘い。彼等は死ぬんだ。到底分る筈はない。しかし、しかし、俺は理解出来る。彼等の気持を。あゝ!!何たる非業!!どんな飾りがそこに有り得よう。
切々と、綿々と!!あるいは淡々と!!自分の個性を純化しきって、純粋に赤ん坊や小学生のようになって涙ながら綴られたその一字。お母さんに訴える人。友人や母や妹を託す人、いとしい恋人に永久の別れを宣言する人。自分のためでない。丸っきりの犠牲。前途洋々の彼等に、青春の血高らかに燃えさかる彼等に、要求されたのは死。死。彼等の死の直前の手記。おゝ、この文字を文を、彼等は思いを故国に馳せながら書き綴った。爪と髪とこの手記のみが故国に送られる。それが送られたって何になるか。一体何になるというのか。最愛の息子は、恋人は戻って来やしない。当時は、お国のためで通ったろう。自分をだます事が出来たろう。彼等は今となっては空しい戦争のため最愛の人を失ったのだ。忘れてはいけない。いくらなんだって、可愛想過ぎる。
ひからびた血潮の海に足を洗わせ仁王立ちに突立ち肩を怒らしながら暮れゆく水平線を必死に見つめ、明日は死ぬ身を突立てて明日は無き眼に生れて始めての涙を浮かべとどまりを知らず頬を伝わる流れをも、ぬぐいもせず見つめている。
あゝ、察するにあまりある。その悲痛な心境!!心の弦は、いやましに気狂いの如く乱打される。目に浮んでくるあの顔、この顔がどんなに薄っぺらに感じられるか。怒り!!
己れへの怒り全ての他人への怒り。おう戦争!!汝は何たる悪魔か!!どうか皆さん、この本を読んで下さい!!絶叫したい衝動。「再軍備」大馬鹿野郎!
きけ!わだつみのこえ!
・・・・・・廃物本の書棚に小さくなっていた。他の本からギュウギュウ押され表紙が飛出し本全体がねじれるように歪んでいた・・・・・・
・・・・・・その姿、おお!!それは。
中学校三年の時に修学旅行がありました。東京、鎌倉がコースでした。会津の山猿は東京での自由行動で神田の本屋に行く計画を立てました。神田駅で降りて須田町まで歩き電車に乗る。三省堂から始まる本屋の地図はしかじかと見当をつけました。そして、東京堂、古本屋などを回り、結局、書泉という本屋で武者小路の文庫本十一冊、その他を買ったのです。いま思うと何も神田まで行って買わなくともと思うのですが、喜多方の本屋には当時、文庫本も十分には揃ってはいませんでした。
中学三年から高校二年までの間に”白樺派”の作家の本をかなり読みました。私の源流の一つはズブズブのヒューマニズムであったわけです。”幸福な家族”はその一冊でありました。
もう一つの源流は第二楽章です。高校三年の時1960年安保では先の親友珠玖君と安保反対のデモに始めて出ました。狭い町の皆んな知ってる人が見ている中での参加ですから、さすがに口の中がカラカラに乾きました。きけ、わだつみのこえは今も私の中を流れています。このように私の骨格は親友と書物によって一つ一つ作られました。
今年の八月中に買い求めた本は、「困った家族」とつきあう法(国谷誠朗)、癒しのメッセージ(春秋社)、自己治癒力(ジーン・アクターバーク)、イメージの治療力(日本教文社)と25,000円の医学書、その他1冊の計6冊でした。音楽の方はCDを3枚、テープ4本です。これぐらい買い込んで読み、かつ聞かないと淋しいのです。帯刀副学長はもっと買い、読み、岩瀬先生は私よりもっと勉強されているようです。
喘息大学7期生の忠政敏子さん(大阪府立看護短期大学教授)が「看護」という雑誌の七月号に、「読書は人生を支える最良の友」という文を載せておられます。先生は6~7000冊の蔵書をお持ちだとのことです。
私はとてもそこまでいきませんが、大阪のマンスリーフォーラムで去る七月二十五日、お会いした際、会場で本やCD、テープを漁る先生の御姿が自分に似ていて、一人笑ってしまいました。
「混沌の中に光るもの」六番目に書物と感動を挙げました。自然も果実を豊かに実らせる秋です。この秋、この九月、一冊でもいい、感動の本に出会ってあなたの実りを豊かにして下さい。
共に、たわわな実りを実現し、しっかりとした骨格を作りあげましょう。
混沌の中に光るもの(7)
喘息大学学長 清水 巍
終鮎
ひたひたと忍び寄る秋
高く澄んだ青空から
コスモスの花の頬を撫でつつ
秋は野原に降りてくる
ひしひしと忍びくる冷気
高く澄んだ青空から
ススキの銀の手に招かれて
秋は川原に降りてくる
もう終鮎
ガツーンと糸が張る
目印は水の中へ
満月のようにしなる竿
巨鮎二匹近ずく
醍醐味を味わった
後半の友釣り
もう終りだ
よく育った残り鮎よ
また来年だ
鮎は精一杯生きて川を下る
自分は精一杯生きたのだろうか
悩み突き抜けんとする
7.願望
関東青葉の集いに出かけた時は台風17号が来ました。出発する9月15日(日)は石川県は台風は通過し、晴れる予定でした。大丈夫、朝の1便は飛ぶだろう、そう思っていました。「しかし、待てよ、羽田からの最終便は小松に向けて飛んだのだろうか?もし飛ばなかったら、こちらからの便は欠航するだろう」―そういう心配が頭をカスめたので、全日空にTELしました。案の定、「ただいま欠航が決まりました」というのです。次の日本航空の便が空いているというので、酒井喘大事務局長、西村日喘連事務局長の分も含めて日航に切り換え、間に合うことになりました。
9月28日(土)は東北の喘大中間交流会、宮城喘大交流会に出掛ける時でした。今度は台風19号が金沢にも猛烈にやってきました。朝の1便は欠航まちがいなしです。次の便をとろうとTELしました。あいにく今度は日航も全日空も最終の便以外満席でした。「しようがないJRで行くか」と早朝の列車に乗ることにしました。
金沢駅に行くと昨日の大阪、米原発のどの列車も到着していない。朝の8時に復旧の見込みというのです。次は9時、その次は10時に動くという発表のみで、列車の来る気配も無ければ出発する気配もないのです。架線が風でやられ、点検しているというのです。タクシーで行くわけにはいきません。
空港にTELして小松発の最終便が空いているのを予約し、満席でとれなかった仙台行の空席待ちに賭けて、小松空港に行きました。それに乗れず、あとの東京便にも空席が無くて、JRが動き出すならまた金沢駅に戻ろう、JR動かなければ小松発最終便で行って、夜中に松島へかけつける―そう決断しました。
空港に着くと仙台便の空席待ちは4番目、東京便は51番目でした。仙台便の空席待ち5番までが呼ばれ、何とかやっと乗り込み、さして遅れることなく、東北の皆さんに会うことができました。
これも運が良かっただけかもしれませんが、何とか間にあいたいという願望と決断があったからではないでしょうか。
こういうどこかへ行きたいという願望はうまくいったり、うまくいかなかったりします。しかし人の一生ということになりますと、「願望の実現」というのは仇やおろそかにできません。
私の中学、高校時代の精神生活は悩み多きものでした。どのような考え方で生きていけばよいのか?こんなに悩む自分の頭は狂っているのではないだろうか?、頭もよくないし、顔もよくない。映画や小説の主人公のように生んでくれれば良かったのに、親を恨んでも始まらない。だから彼女一人もできっこない。思春期特有の悩みに悩んでいました。その悩みを突き抜けたいと願っていました。それが前号のピアノ奏鳴曲第一番”感動”の第一楽章、第二楽章となり、拙ない文ですが、第三楽章もここに掲載しました。今は気恥ずかしくて、とてもこんな若い時のような文章はかけません。文でピアノの音のようなイメージを出したいと考えて、ただ金粉、銀粉を散りばめただけの駄文です。
第三楽章 「透徹」
スケルツオ
昭和三十三年十月五日
十月の夜の空気はひっそりと冷たい。蛍光灯の光りによく調和している。スーッと忍び込んでくる冷気は頭から足へと快い冷感を伝える。青い秋が静かに忍び寄っている。
さっきから中島敦全集のⅠを読んでいた。図書館の書棚の隅っこに悶々としていたこの本を知っている者は少ない。黒い粗末な布で修繕されたこの本の体裁はその内容の素晴らしい事を隠していた。不吉な黒い布に白っぽい色の中島敦と斜めに右肩上りに書かれた字は一度聞いたことのある者でないと分からない。全く文壇史において華やかでない、ずっと目立たぬ彼の占める位置に他ならない彼の運命を優に暗示するこの本は自分にかつてない最大感激、文字通りの最大感動をもたらした。十月の夜はいよいよ冷えてきたが自分の心はその冷気を吸っていよいよ燃えた。
・・・・・・「牛人」・・・・・・・・・・・・・・・・・・
・・・・・・「悟浄出世」迄読んだ。
悟浄、西遊記に出てくるカッパは中嶋敦の筆によって精神的な不思議な光を放つ。
中島の文章は非常に漢語が多く、そこからくる味は冷悧な透徹した趣を含む。悟浄は複雑な人間感情を有するが、河底の仙人や徳が高いと言われる修業者を訪ねて人生とは何であるかを知ろうとする。そしてこれぞと思った所で修業し苦業する。しかし彼は彼の求める彼の真実と思う境地に入れない。師に取りすがっては「真のお教えを!」と悲しみに耐えられず乞う。彼は何処でも彼の修業が足りないと罵られる。彼は恐ろしい罪を背負っているのだと教えられる。側から嘲笑の声や陰険な嫌味を言われたのは幾度か。
苦しい人生の探求に中島のカッパによって次々となされる。
悟浄は人を疑い、自分を疑い、苦悶する。懐疑の念に責め上げられ幾晩もまんじりともしない。訪ね訪ね歩く。尋ね尋ね歩く。そして殆んどの思想家、○○主義者、徳僧、哲人と呼ばれ、各々は自分こそ人生の神髄をつかんでいると硬く確信している人達の門を叩き尽す。得られた結果は劣等感と絶望感のみ。悟浄は醜い。身も心も。彼はどこでも裏切られ、悲嘆のどん底にあえぐ。彼は満足が得られない。彼はあくまでもさまよい歩く。
中島敦の非情なまでの文章は俺の心を底の底まで突き落す。
中島の心の中の悟浄は、「悟浄出世」の悟浄を通して俺の心の中の悟浄を誘い出す。三匹の悟浄は「悟浄出世」の悟浄を真中に三重の影像を成し、河底をさまよう。あんなに無惨に打ちのめされた苦い経験の少しも軽くならぬ悲嘆と絶望の中に、なお、なお、我等はここでこそ慰安が得られるかと、期待に胸を轟かし哲人の門を叩く。一年、二年、三年とひたすら平安を念じ苦業を、修業を続ける。そして自己嫌悪を更に強くして又さまよう。三重の影像は、その度に強く結合する。足取りの重い、鉛の心の重さ。
中島敦の文章はいよいよ冴える。
俺の心をふみつぶすが如く。
非情なまで。非情なまでに。
三匹の悟浄は悲痛のために河底の岩陰でバッタリ倒れた。小魚が群をなして頭上を泳ぐ、藻が漂う。・・・・・・・・・
俺の悟浄は不思議な世界にいる。水かきのついた足が冷えきった地面の感触を伝える。
俺の悟浄は順々に見渡す。
殆んど中天にかかる青い影持つ満々月。星の消え失せた暗青色の大ドーム。永遠なる宇宙の広がり。俺の悟浄は宇宙の拡大無辺な広がりを見つめる。青色く、真丸い白金の月は、無限の宇宙に煌々と照り渡る。微動だもしない。
それを映しとるは磨き上げられた、水晶の鏡の如き、深き真泉。木陰の泉の深遠さ。黒緑りに落着き払った回りの草、蘭。美しき乙女の涙の様なキラキラ透きとおった白玉がその上に。清純な涙玉は微動だにしない。
俺の悟浄はゆっくりゆっくり黒い小道を歩いて行く。音のない世界。空気は悲しいほどに冷酷。
青黒い氷の洞がある。月光が天井を突き抜け不思議な光りの反射する洞。悟浄は中に入る。したたり落ちる青ざめた水滴。音はしない。洞窟が永遠に連結していることを悟る。
黒い小道をゆっくり歩いていく。樹間に神秘の湖が月の光を満面で反射し怪しくけむっている。水面にこもるもやの幻想的なことは、ニンフの住いを表わす。湖畔にそってしばらくすると小高い岩山に出合う。その岩肌の冷厳さ。岩肌は月光を反射する。その男らしい強い冷たさ。頂上に立つ。
大きな岩盤の頂上で三匹の悟浄は再会する。三匹は肩を合わせ、手を握り合い、ポロポロ涙を流しオイオイ泣く。音はない。三匹はひしと抱き合う。俺の悟浄は感激し、次々と嗚咽がこみ上がるのを抑えることが出来ない。三匹は肩をふるわせて泣く。岩盤の冷えきった接触とピッとした夜気が全身を氷らせる。俺の悟浄は腕と腕の間から絶壁のはるか下をキラキラと流れる一筋の谷川を見る。巨大なマンモスのボーッと光る骨火を見る。峻険な黒々とした対岸の山々に小さな青白い燐光がメラメラと燃えている。右手に広々とした寂漠荒涼とした荒原を見る。悟浄達は幾度も幾度も肩を抱き合った。心にはほのぼのとした暖い灯がともっていた。
心の奥底から歓喜が湧き起って来た。ボコッと。・・・・・・回りの世界の冷厳さが心持ちよくなっていった。・・・・・・・・・
俺は机の上にある本の文字がボーッとして見えなかった。心は澄みきり、透徹し、そこに霊妙な幸福の気分を見出だし、全身を浸した。涙が机の上にポロポロ落ちた。
中島の作品中の悟浄はやがて、さんぞう法師と出会い、天竺に向って一緒に旅をし、孫悟空のような天才的な強い男にも八戒の楽天的、快楽主義の裏にも寂しい面があるのに気付き、そして或る夜、星の美しさとさんぞう法師のやすらかな寝顔を見ながら一人考える内に彼等、悟空、八戒、それに自分の悟浄が何故にこの弱々しい法師に従い旅をするのかを悟るのである。
又、木の間からまたたく星を見ながら、何だかアレが分った気がし始めて安眠するのである。
すっかり霊妙な歓喜に浸った俺は何とも言えないスガスガしい気持になり、涙を流しきると床についた。
夜をつん裂く汽笛の音が冷たい暗闇に消えると、鉄橋を渡る、ゴトゴト― ゴトゴト― ゴトゴト―
―終り
自分なりの作品を書いて、自分の願望をイメージ化したのだと思います。悟浄はカッパです。大したことのない普通の人間性、弱い人間性を持つ自分と同じ存在です。そのカッパやマンモスの骨灯、ニンフ(妖精)をごちゃまぜにしました。文とピアノ奏鳴曲がどう重なるのか、そんなこと一切頓着しないで、自分の願望を自分なりにイメージ化したのでした。文が難しいのは高二という若気のいたりです。お許し下さい。悩み求めていたことだけは分って頂けるでしょう。
書くこと、文にして残すということで、第一、第二、第三楽章とも自分の悩みを突き抜けんとする人生の下敷となったように思います。
かつて会津盆地で悩んでいた高校二年生は、このたび故郷での講演に呼ばれることになりました。
亡き親父および妹夫婦、、私が子供の頃からお世話になった喜多方薬業界の皆様の斡旋で、「喜多方地区保健衛生総合大会」(200名以上が参加とのこと)の記念講演に来いと言われました。来る十月三十一日(木)北塩原村北山のコミュニティセンターで午後一時から一時間半、「自他の輝きを求めて」―喘息大学12年の経験から―というテーマで話しをさせて頂くことになりました。故郷への始めての恩返しの一つになればと思い、未熟者ですが行ってきます。会津地方の方は来て下さって結構とのことです。駄文を書いて悩んでいた人間にとっては夢のような話しです。
残された人生で「願望」はどこまで実現に近ずくのか全く分りません。ただ自分の願望をイメージ化したり、書いてみたり、語ったり、悩み突き抜けんと絶えず努力することは、必要なことではないでしょうか。
願望をイメージ化することによって混沌の中に光が見えてくるのではないでしょうか。
混沌の中に光るもの(8)
喘息大学学長 清水 巍
秋 |
秋の日の 海に落ちんとする太陽は 一年で一番大きい その落日のごと 今年を終えることが できるだろうか秋の日に 地に落ちんとする木の葉は 一年で一番色豊か その落葉のごと 君は今年を終えるだろうか 懸命に巡り巡った太陽だから 桜花散らし 秋は終り、来年が始まっている |
8.故郷
混沌の中に光るもの(9)
喘息大学学長 清水 巍
師走 |
柿、リンゴ、ミカン、 十二月だというのに 寒風を忍び 完熟をめざしている菊、コスモス、さざんか 十二月だというのに 寒風に耐え 今年最後を飾らんとしている自然は正月を迎えるために ギリギリの準備をしている 今年の金沢の正月は 雪化粧だろうか それとも見事な 小春日和だろうか 除夜の鐘が鳴らんとしている 君は用意万端済だろう なのに私は年賀状も だが、私には少し日がある |
9.陰と影の検討
混沌の中に光るもの(10)
喘息大学学長 清水 巍
師走 |
波の音 高見 順 波音が 朝の砂の上を越えて 強くても眼には見えない波音が 時間は波のように 寄せては返す波の音よ 新しい年を迎えて 私を訪れる時間を そういう年であらしめよう 波音よ 高くひびけ |
10.新しい波動
高見 順さん(作家)の詩はいかがでしょう。今年の冒頭にはこの詩を掲げようと決めたのは随分前でした。高見 順さんが発表した詩に、御自分が後年、手を加えたとされる改訂版的な方を皆さんに紹介しました。新年の冒頭を飾るのにふさわしいと考えました。
自然の波の波動は目で見ることができ、耳で潮騒の音を聞くことができます。もう一つ誰にでも分かるのは時間の波です。歴史の波とか寄る年波とか言われます。一昨年の一月にはベルリンの壁が壊され、東西ドイツが統一へ動きました。昨年の一月には湾岸戦争が起りました。昨年の十二月にはソ連邦が解体し、世界史は一年一年大きなうねりを起しながら、流れています。
時の流れ、時代の波動が第二の波動でありましょう。第一の実際の波、第二の時間の波について、高見 順さんの詩は、波音を高らかに伝えています。
喜びで迎えて、喜びで見送る、そういう年にしようと呼びかけています。「ああ、私もそうしたい、そうなりたい」とだけ言っていたらそうなるでしょうか。「そう思っているんや、だから私をこれ以上責めないで下さい」と防衛しているだけでは、嘆きと病気で見送るだけに、日々の波が終ってしまいます。
第三の波動というのは生命活動、生きるリズム、生きる動きそのものではないでしょうか。心臓から赤い血液が全身に、波打つように送り出されます。その血液の成分は海水の組織と似ており、海が生物を愛しむように身体の細胞を内側から満たし、恒常状態を保つように働いています。呼吸というリズムによって、酸素が血液に取り込まれ、炭酸ガスが排出されます。肉体的、身体的な波動と、また、心の内側からの呼びかけも波動となって互いの人間に影響します。
そういう生命活動に支えられて「命の炎」が燃えています。心の動きや精神活動があり、それによって一人一人が第三の波動を作り出しています。生きている限り、何らかの波動をその人は発しています。
その第三の波動、一人一人が作り出している波動を新しいものに変えていこうではないかと呼びかけたいのであります。人にいやな思いをさせ、毒気と暗い雰囲気をまき散らすのではなく、喜びや楽しみを与える、そういう波動の関係を作っていきましょう。
そのためには、最低のこととして、喘息死を無くすということです。
一昨年、喘息死を無くそうと呼びかけました。一昨年は城北病院では1名でしたが、昨年は3名の方が亡くなられました。1人は台風19号の去った朝、布団の中で亡くなっているところを発見されました。2人目は中断患者で、時々薬だけ取りに来るという人でした。一度、救急車の中で呼吸停止し、城北病院で蘇生治療を受け助けられたことのある人でした。今回も救急車で来ましたが既に死亡し、回復ができませんでした。3人目は喘息大学1期生のOさんです。この方も到着時は脳死で回復できませんでした。Oさんの生前の遺言と御家族の御厚意で、皆さんたちに役立つならばと病理解剖をさせて頂きました。
その教訓は、脳死を防ぐということです。Oさんが死をもって教えてくれたことを御冥福を祈りながら皆さんにお伝えしたいと思います。治療によって心臓も呼吸も一時回復したのですが、5分以上脳に血液が循環しなかったために脳浮腫が進行し脳ヘルニアとなり助からなかったのです。金沢市内ならどこでも5分以内で救急車が駆けつけると言っています。まず救急隊と連絡をとることが必要です。ダメかなと心配な時は近くの救急病院で処置を受けてから、かかりつけのとこに移動して下さい。そのために救急カードがあるのです。御家族にもどこに持っているか、入れてあるか教えといて下さい。イザという時の予行訓練ぐらいするか、打合わせぐらいしておいた方がいいでしょう。家族教育も課題であると思いました。Oさんの御家族も精一杯、尽され、城北病院も全力を尽したのですが、残念なことをしました。
新年早々、キツイ話をしました。命の炎を消してしまっては良き波動を作ることはできません。一月八日、朝日放送系のニュースランナーという番組で2分間、救急カードのことが流される予定です。北海道の木津さんらは北海道新聞社に出かけ、こういうカードを自分たちの会が斡旋しているからと、北海道の患者会を通じてカードの普及を図りました。皆さんも、「こんなカードあるんですよ」と普及を図って、人助けしてあげてください。郵便局の振替用紙で、口座、金沢0-33006に一枚300円で振込めば資料と共に送られてくると伝えて下さい。
100人の通院成人喘息患者で年間1.56人が日本では統計上喘息死されるのです。城北病院は年間1000人が通院されますので、15.6人が年間に亡くなるという数字も出るのですが、これまでは年間1名でした。昨年は3名だったのです。それで年頭に警告を発することにしました。
喘息死を防ぎ、新しき良い波動を作りあうことが必要です。自然の波音も時間の波音も高くひびけ、私も私の人生の歌を、高く強くひびかせる、そういう一年にあらしめたいものです。そのためにお互い生命の炎をよきものに磨き合いましょう。
混沌の中に光るもの(11)
喘息大学学長 清水 巍
師走 |
宝塚グランドロマン 歌 社 けあき 愛、それは甘く 愛、それは悲しく |
11.愛
「愛あればこそ」の歌を、社けあきさんの歌をバックに、石川県喘息友の会の総会後の忘年会(昨年の)で歌いました。皆さんのお情けで、生れて始めてアンコールの声がかかり(これまで一度もアンコールの声などかかったことが無い)、続くレバートリーが無いものですから、「また時間が余ったらね」と逃げました。
社さんの歌が朗々と入り、私はあたかもデュエット曲の如くほんの少し声を出していただけですから、社さんの歌声と始めて聞く歌詞に魅せられてアンコールの声と拍手が湧き起ったのです。
「愛」は参加者を感動させるのにふさわしいテーマであり、テープの曲も素晴らしいものです。宝塚の劇場で歌われる時は、おそらくクライマックスの場面であり、場客も感動の渦の中に巻き込まれるのではないでしょうか。
どうして私はこの曲と歌詞を手に入れたと思いますか?テレビで見たからでしょうか?それとも住友VISAシアターを見に宝塚へ行ったのでしょうか。宝塚市と有馬温泉に昔、行ったことはありますが、劇場には残念ながら入ったことはありません。
昨年の八月、大阪で栄養士さんや学校の先生向けに講演会がありました。そこの講演の中で音楽療法、イメージ療法をやりました。聴衆の一人の先生が終ってから来られました。「とても感動しました。先生の使われた音楽をダビングさせて頂けませんか」と申し出られたのです。喜んで下さった人がいたのだから、「どうぞ、しばらく使いませんから、聞いてダビングして、送り返して下さい」とお渡ししました。御礼の手紙と共に、「私の好きな曲です」と言って頂いたテープの中にこの曲が入っていました。
私もとてもいい曲だなと思ったのですが、残念ながら録音の状態がよくありませんでした。十一月に関西の中間交流会がありました。終ってからの反省会・懇親会に宝塚市のNさんが参加しておられました。「ネェ、こんな曲知ってる?」と尋ねたら、「知ってますよ、なんなら今ここで歌ってあげましょうか。私の好きな歌なんですよ」と言われました。「ここで歌って頂かなくてよいから、テープを送って頂戴」と頼んで、録音状態の良いのを頂きました。
そのテープで社さんの歌と、「愛の巡礼」一路真輝さんの歌を二月の城北と寺井の講座で聞いて頂きます。遠くの方で御希望の方は「こだま会」を通じて講座録音テープの中で聞いて頂きます。デュエットできますよ。
一連のこうしたエピソードや御縁は「感動」や「愛」を大切にすることから生れています。そして入院、外来の患者さんに対する無料の講座や、こだま会を通じ全国に広げられるということは人の愛が広がることであると思います。「愛」はそんなふうに通いあい、暖められあって、飛び散るように広がるものではないでしょうか。
エーリッヒ・フロムは「愛するということ」(紀伊国屋書店)の著書の中で次のように述べています。「愛とは、孤独な人間が孤独を癒そうとする営みであり、愛こそが現実の社会生活の中で、より幸福に生きるための最高の手段であり、技術である。しかるに人は愛の問題を愛することの問題としてとらえるよりも、愛されることの問題として考えている。また、愛とは浸ることだと考えている。そして浸れない、愛されないと言って嘆いている。いくらそう願っても愛に飢えるだけであって、けして満足はできない。愛は自分に対する信頼、他人に対する信頼、自分を磨き高めることが可能であるという信念、実践の結果生ずるものである。愛することは、保証なしに自分自身を委ねること、すなわち、われわれの愛が、愛されているその人の中に愛を作り出すであろうという希望に完全に身を委ねることである。」
「求められる愛」(誠信書房)の本で、アリエテイは、愛は七色の虹のように七つあると述べています。①家族愛、②隣人、仲間愛、③自己愛、④仕事や成就への愛、⑤超越するものへの愛、⑥エロティックまたはロマンティックな男女の愛⑦人生、それ自体への愛の七つを挙げて、一つ一つを考察しています。その全てをここで論じ語ることはできませんから、この機会に愛に関する書物を読み、ディスカッションすることをお勧めします。
ただ、一部の喘息の人と愛について気がかりなことだけは紹介をしておきたいと思います。
それは「私はもうこれ以上、愛することは無いだろう。しかし、私だけにはもう少し愛を降り注いでもらいたい」と思っている人がいるという事です。それならば家族や回りの人がそうしてくれるように自分からすればよいのに、前向きの努力はしないで、看護婦さんや医者、吸入器、点滴に代替を求めて終っているように見受けられることです。代用物では永久に満足は得られないでしょう。代用物を利用しながらも、七つの愛をその人の年代にふさわしく燃やし与え続けることが必要ではないでしょうか。与え続けていけば何十分の一かは返ってきます。
「愛と心理療法」(創元社)の本に幸わせになるためにギブランの言葉が紹介されています。
だが親密な仲にも隙間を 空けるがよい。 二人の間を天の風が舞うように。 愛し合っても、縛りつけることが 互いのコップを満たし合っても 寄り添って立っていても、 |
こんな心境が今はいいなと思いますが、皆さんはいかがでしょうか。私との間には隙間が空き過ぎて、地の風も舞うならば、それも良しとしつつ互いに「愛」を磨きあって生きてゆきたいと思います。
混沌の中に光るもの(12)
喘息大学学長 清水 巍
師走 |
11.愛
「愛あればこそ」の歌を、社けあきさんの歌をバックに、石川県喘息友の会の総会後の忘年会(昨年の)で歌いました。皆さんのお情けで、生れて始めてアンコールの声がかかり(これまで一度もアンコールの声などかかったことが無い)、続くレバートリーが無いものですから、「また時間が余ったらね」と逃げました。
社さんの歌が朗々と入り、私はあたかもデュエット曲の如くほんの少し声を出していただけですから、社さんの歌声と始めて聞く歌詞に魅せられてアンコールの声と拍手が湧き起ったのです。
「愛」は参加者を感動させるのにふさわしいテーマであり、テープの曲も素晴らしいものです。宝塚の劇場で歌われる時は、おそらくクライマックスの場面であり、場客も感動の渦の中に巻き込まれるのではないでしょうか。
どうして私はこの曲と歌詞を手に入れたと思いますか?テレビで見たからでしょうか?それとも住友VISAシアターを見に宝塚へ行ったのでしょうか。宝塚市と有馬温泉に昔、行ったことはありますが、劇場には残念ながら入ったことはありません。
昨年の八月、大阪で栄養士さんや学校の先生向けに講演会がありました。そこの講演の中で音楽療法、イメージ療法をやりました。聴衆の一人の先生が終ってから来られました。「とても感動しました。先生の使われた音楽をダビングさせて頂けませんか」と申し出られたのです。喜んで下さった人がいたのだから、「どうぞ、しばらく使いませんから、聞いてダビングして、送り返して下さい」とお渡ししました。御礼の手紙と共に、「私の好きな曲です」と言って頂いたテープの中にこの曲が入っていました。
私もとてもいい曲だなと思ったのですが、残念ながら録音の状態がよくありませんでした。十一月に関西の中間交流会がありました。終ってからの反省会・懇親会に宝塚市のNさんが参加しておられました。「ネェ、こんな曲知ってる?」と尋ねたら、「知ってますよ、なんなら今ここで歌ってあげましょうか。私の好きな歌なんですよ」と言われました。「ここで歌って頂かなくてよいから、テープを送って頂戴」と頼んで、録音状態の良いのを頂きました。
そのテープで社さんの歌と、「愛の巡礼」一路真輝さんの歌を二月の城北と寺井の講座で聞いて頂きます。遠くの方で御希望の方は「こだま会」を通じて講座録音テープの中で聞いて頂きます。デュエットできますよ。
一連のこうしたエピソードや御縁は「感動」や「愛」を大切にすることから生れています。そして入院、外来の患者さんに対する無料の講座や、こだま会を通じ全国に広げられるということは人の愛が広がることであると思います。「愛」はそんなふうに通いあい、暖められあって、飛び散るように広がるものではないでしょうか。
エーリッヒ・フロムは「愛するということ」(紀伊国屋書店)の著書の中で次のように述べています。「愛とは、孤独な人間が孤独を癒そうとする営みであり、愛こそが現実の社会生活の中で、より幸福に生きるための最高の手段であり、技術である。しかるに人は愛の問題を愛することの問題としてとらえるよりも、愛されることの問題として考えている。また、愛とは浸ることだと考えている。そして浸れない、愛されないと言って嘆いている。いくらそう願っても愛に飢えるだけであって、けして満足はできない。愛は自分に対する信頼、他人に対する信頼、自分を磨き高めることが可能であるという信念、実践の結果生ずるものである。愛することは、保証なしに自分自身を委ねること、すなわち、われわれの愛が、愛されているその人の中に愛を作り出すであろうという希望に完全に身を委ねることである。」
「求められる愛」(誠信書房)の本で、アリエテイは、愛は七色の虹のように七つあると述べています。①家族愛、②隣人、仲間愛、③自己愛、④仕事や成就への愛、⑤超越するものへの愛、⑥エロティックまたはロマンティックな男女の愛⑦人生、それ自体への愛の七つを挙げて、一つ一つを考察しています。その全てをここで論じ語ることはできませんから、この機会に愛に関する書物を読み、ディスカッションすることをお勧めします。
ただ、一部の喘息の人と愛について気がかりなことだけは紹介をしておきたいと思います。
それは「私はもうこれ以上、愛することは無いだろう。しかし、私だけにはもう少し愛を降り注いでもらいたい」と思っている人がいるという事です。それならば家族や回りの人がそうしてくれるように自分からすればよいのに、前向きの努力はしないで、看護婦さんや医者、吸入器、点滴に代替を求めて終っているように見受けられることです。代用物では永久に満足は得られないでしょう。代用物を利用しながらも、七つの愛をその人の年代にふさわしく燃やし与え続けることが必要ではないでしょうか。与え続けていけば何十分の一かは返ってきます。
「愛と心理療法」(創元社)の本に幸わせになるためにギブランの言葉が紹介されています。
だが親密な仲にも隙間を 空けるがよい。 二人の間を天の風が舞うように。愛し合っても、縛りつけることが あってはいけない。 それは、二つの岸辺、二人の 魂の間に漂う海のようである。 互いのコップを満たし合っても 寄り添って立っていても、 |
こんな心境が今はいいなと思いますが、皆さんはいかがでしょうか。私との間には隙間が空き過ぎて、地の風も舞うならば、それも良しとしつつ互いに「愛」を磨きあって生きてゆきたいと思います。