目 次
11 四つの自分と抵抗とのつきあい方
強く生きるための医学(11)
喘息大学学長 清水 巍
内面の浄化・強化のためにと題し、先月城北で講演した中味を全国の人にも伝え、抵抗について新しく紹介します。
人間の心には四つの窓がある―これはジョーハリの説です。これを人間ということに置きかえて考えてみましょう。人間が外面、内面ともに強化して生きていくためには大切なことだからです。
(上表)①の外面が自他ともに認める表面の自分です。②は自分だけが分る内心、本心、裏の心という部分です。感謝しているように見せかけているけど、腹の中では腹を立てたり、憎んだりしているというような場合です。③は他人から見ると分っているのに、本人だけが気付いていない自分です。裸の王様の話が有名ですが、他人の側から自分を見る。自分を客観視して始めて分ったり、他人の批判や忠告で初めて気づける自分です。能や謡曲の天才世阿弥(ぜあみ)の「離見の見」という境地に当ります。これを上手にとり入れることができると他人との矛盾がなくなりますし、②の隠れた本心が①や③と調和がとれるように充実しますと、自分との矛盾がなくなります。④は生い立ちの中で作り上げてきた感情の歴史、考え方の歴史や無意識の世界です。ここがよくなってくると人格的にも立派だとか、逆境に強いと言われたりします。
内面をよく見るようにとか、強化しなさいということは、②、③、④を充実し、強化しなさいということです。喘息の人は①の外面だけを気にして、喘息をしている外面だけを何とかしたいと、慌わて捉われ過ぎている傾向があります。②、③、④の強化、充実こそ外面をよくします。②、③、④の充実によってバランスのとれた自分を作ることが、喘えがなくてもいよい自分を作る道ではないでしょうか。
たとえばアンビバレンス(両面的な感情、態度)の考え方があるとします。これは通常④の無意識の中にある考え方です。喘息の人がよくとる考え方です。両極端をあっちへ行ったり、こっちへ来たりして疲れてしまいます。
どっちかしないと考える考え方を“二値的な考え方”と言います。白か黒、善が悪、ハッキリしてくれと考えているわけです。これでは疲れるにきまっています。常に人間には両方が存在するのであり、中間は無限にあると考えると楽になれるのです。全てを認めてその上でどうすることがよいか、選択をすればよいのです。左側に極端に行くとすぐ右へ行きたくなるので、やや左側、いい方をなるべく無理をしないで選択するようにしていけば、大きな矛盾は起こりません。ときに右へ行ってもそれはそれでよい。誰でもそうなのだから、人間はみな似たようなものだからと納得していればよいのです。その上で左の方がいいんじゃないかと左側へ少しずつ進めばよいのです。
頭では分るけど、自分はできない、いや、本当のとこ何を言われてるのか分らない。どうしたらよいかわからない。自分は白黒つけたいのだ、講釈はいらない。講釈じゃ治らない、―そうだ治らない―治れない。ここへ来ると発作です。②③④を強化できない、自分の考え方や感じ方を修正なんてできないよ―これを“抵抗”を言います。今までの自分で何が悪い、今までの自分で行くとこまでいけばよいんだと、これまでの自分が出てきて、変化し成長しようとする自分に抵抗します。今回はこの抵抗とのつき合い方について考えてみましょう。
この抵抗はとても強いものです。強いからこそ人格が保たれるのであり、今までの自分が継続されるのです。この抵抗がなかったら豆腐みたいな人間になってしまうでしょう。では、喘息の人はこの抵抗を打破って、新しいよりよい自分を作らねばと斗いを挑むとは何故、発作になるのでしょうか。
第一は一度でやらねばとか、完全にやり抜かないとと考えてしまうからです。吸入や静注、点滴でケロッとよくなる体験から生れる発想は「完全にキレイに、一発でよくなってしまいたい」なのです。いつもズーズーいってる人は仲々よくならないので、その人なりに一気呵成を願ってしまうわけです。一発主義や完全主義では負ける。従って発作で穴埋めというコースは理解できるでありましょう。
第二は古い自分の一部を捨てなければ得られないということです。吸おう吸おうとする発作の頭では吸うこともできないのです。十分に古い空気を吐かないと、新しい空気や考えは入ってきません。頭の腹式・排痰も必要だということです。抵抗に気づき、古き考えや感情を捨て続けてこそ得られる―この真理を応用して下さい。「捨てなければ得られない」(石川洋著、三笠書房、知的生き方文庫、400円)の一読をお勧めします。何人もの人がこの本によって心が救われたようだと言っています。
第三は心の中のせめぎあい、葛藤、たたかいが起るとは発作になってしまう―そういう葛藤がかつての喘息の始まりであり、原因であったし、いつもの原因である。従って抵抗と激突すると発作になるということです。古い自分、新しい自分、発作の自分、どれもこれもみな今の自分なのです。どれかを抑圧・否定しようとするから斗いになり発作となるのです。否定したり劣等感を持ったりせず平和共存させながら、成長しようとする自分をほめ励まして、よい道を歩んで下さい。それしか成長の方法が無いのです。身体のサマツ、腹式、排痰を毎日やるように、頭や感情のマサツ、腹式、排痰を少しずつ実行していけばよいのです。発作を起さずに自己変革をやっていただきたいのですが如何でしょうか。
12 感情の言語化
強く生きるための医学(12)
喘息大学学長 清水 巍
城北病院の病室には、全員が喘息患者であるという部屋が幾つかあります。310号室は全国各地から来ている男性6人部屋です。ここの部屋を3月号のモデルにしようかと回診の時、話をしたら「いいですよ、やって下さい。いい見本と悪い見本がいますしね。」などとO.Kが出ました。皆さん笑いながら、どんな風に書かれるのか興味津々(シンシン)といった風でした。
私がどうしてそういうことを言ったかというと、この6人中4人までがいまひとつなのです。電線にスズメが4羽、とまっているが如く、BARのとまり木椅子に4人が座っているように、毎夜毎夜、吸入器の前に仲良く並ぶわけです。中には点滴をブラ下げながらの人もいる―これじゃ、“強く生きるための医学”も効なしだし、“城北病院の医療もいまいち”を証明しているようなもんだ―、エーイ、靴の下から足をかくようなことはやめて、直接マナ板の上にのせて包丁をふるってみよう―こういうつもりになったのです。
幸いO.Kが出ました。まず、発作の殆どなくなった二人について見てみましょう。
二人とも、病歴・ステロイド使用歴・発作の強さや程度・入退院の回数、どれをとっても他の4人と遜色がありません。いや、もっと大変だったと言ってもよいでしょう。6人が全員手記を書かれましたが、異(ちが)いが三つあるのです。
第一は、よくなった二人の手記は「喘息に逃げこまざるを得なかったことが自己反省として、気づきをこめて書かれている」ということです。比較的分りやすかった(無理し過ぎだったとか、逃避し過ぎだった)とも言えます。他の四人は、克明に手記は書いてはみましたが、どこをどう反省したらよいか分りにくいとも言えます。一生懸命に生きてきたんだからというのが前面に出て、足りなかった点を認めることが出来にくいという違いです。
第二は、北海道から来た○○さんの如く、第一の手記が「夢ならばさめまじくと念じつつ」、第二の手記が「本当にありがとう」という題の如く、家族やお世話になった人、医療スタッフへの感謝の気持ちが、自己のこれまでのいたらなさの裏腹の如く、溢れ出ているということです。葛藤を起こして発作をしている人は、甘え、恨みやひがみ、罪悪感を持っていたり、捨てきれず、どうも責任転嫁を他にしたがっている傾向が見えます。
第三は、「感情を見つめ、言葉で表現し、調節(分析し選択)できるようになった人」がよくなり「その訓練が小さい時からできておらず、今も不十分な」な人が、いまいちのように思えるのです。この第三の点を改善する技術を身につけて、第二、第一の違いをもなくしていただきたいものです。そして、せめて点滴なし吸入ぐらいでコントロールして、自己変革を達成してほしいのです。
第三点の改善を「失感情症(アレキシシミア)」の改善と言います。この点では、昨年のわかば10月号に掲載された西山美智子さんの文章は大変に秀れた内容を持っていました。引用いたしますと、「アレキシシミア、アー(無い)レックス(言語)、シミア(感情)―(中略)―。過去に体験しましたアレキシシミアの反動で、つい勇み足になる自分の言動を一番最適と思われます平な状態にもどす訓練と、人間関係での感情のコントロールを始めてみました。どのような成果が出るか楽しみですし、自分を客観的にみることに役立つだろうと思われます。」
この文は、私だけに宛てられてかかれたものの一部分だったのですが、なかなかよい文だと持って歩いているうちに“わかば”の私の原稿とともに、編集者に渡してしまった結果、“わかば”に載ってしまったものです。他に誤解された部分の文章があって、今月号の西山さんの文にあるごとく、御本人には大変ご迷惑をおかけしてしまいました。大勢の人を対象として、もともとは書かれた文ではなかったので、読まれた人達から誤解をされる部分があったそうですが、深くお詫び申し上げます。私のミスの重なりで出てしまった文章ですが、御本人自ら、強く生きていこうと決意される姿勢に学ばされ、励まされ立派な文章だったと思います。
生い立ちの事実は、記憶や場面(シーン)として大脳新皮質に残されます。しかし、そのシーンには感情が伴っていることが多いのです。感情は記憶には残らず、大脳新皮質には残りません。どこに行くのでしょう。無意識の世界や大脳辺緑系といってより深いところに蓄積されて残るのです。人間は感情の歴史によっても動かされていると言っても過言ではないし、それが性格や考え方、対人関係に影響を及ぼすのです。
ですから、感情処理を言葉で冷静にできないと、不満やコンプレックスが内攻し、自律神経に不安定を来たし、喘息の人には喘息を起こしやすくするのです。これまでもそうだったから喘息になったという人が多いし、今も、言葉や文に、感情をこめて、深い気づきや反省をこめて出せないために喘息になっているのです。(少なくとも四人は)。
では、どうすればよいか。感情を言葉にする訓練ということになります。感情の歴史を言語化し、再処理に成功するとよいのです。文章にする訓練でもよいのです。それができないと、逃避のための発作が起ってきます。葛藤が起ってくるからです。発作を起さずにやるためには、当面の葛藤は起さないようにして、言葉にしたり文にしたりせねばなりません。そのコツを伝授します。
喘息の人には毎日の頭に次のような言葉が浮かぶのです。
(1) てきぱきやりなさい(急げ!)
(2) きちんとやりなさい(完全であれ)
(3) 一生懸命やりなさい(もっと努力しろ)
(4) 人に喜んでもらいなさい(私を喜ばせろ!)
(5) しっかりしなさい(男ないし女、夫、妻、母、子などの役割りをしっかり果せ!強くあれ!役割の演技を完遂せよ)
これは、ドライバー(駆りたてるもの)というものです。これがいつでも頭にあるために、現実との矛盾や葛藤、そして発作が起るのです。とすれば、この5つを毎日チェックして、作動させないようにすれば葛藤が起らなくなり、ストッパーの出現もなくなって、ゆっくり言葉にしたり、文にできるのではないでしょうか。四人だけの問題と思わずに、他の方もこの5つの理想・指令の犠牲になってきはしなかったか、よーく頭に手をあてて考えてみて下さい。
四人も皆さん、次の号には少しよくなりましたと書けるといいですね。
13 やさしさと回復の関係
強く生きるための医学(13)
喘息大学学長 清水 巍
310号室は一度に有名になったらしく、見学に見える人さえありました。「次号は、女性の部屋だ。お向いさんをやってくださいよ、皆んな、こんだ女性の部屋が舞台になるぞってウワサしとるんですよ」と挑発してきた。
挑発に乗って、今度は女性の部屋を覗いてみることにします。ここも6人部屋。全国から集まってきています。もっとも、この原稿が陽の目を見るとすれば、そこの喘息患者さんたちの許可が無いといけないわけです。原稿がそのまま載ったとすれば承認が得られたからとお読み下さい。
この部屋からは先日、3人が巣立ち、明日1人が東京へ。3月末にはもう一人の方が長野へ、続いて退院されます。北海道へ帰られた方からは、この部屋へ芝桜の絵葉書が届けられました。ずーっと前に退院された方からは、桜草の苗が送られてきて、リハビリセンターの前あたりに植えて下さいと手紙が添えられていました。この部屋を回診するのに、楽しみが一つあるのです。花のような6人の女性患者を眺めることができるばかりではなく、実際の生花や数々の活けた木を窓際で観賞できるのです。今日は“活け方”が上手に見えたので、「何流ですか」と問うてみました。すると、「自然流です」とある人が答え、ある人は「イヤ、城北流です」と言うのです。喘息の女性患者は本当にみなさん、花が好きですね。この部屋の人達は勿論、どの女性患者の床頭台や壁、窓際にもそれぞれが思い思いの美しい花を活け、飾っておられるのです。
そして、そこに自然をかぎとり、健康をかぎとり、自分の分身のように愛(いつく)しみ、自分の姿や思いを感じ投影されているのです。そう言えば、これまで退院された脳裏に浮かぶ、なつかしい女性の患者さんたち、どの人も花が好きだったなあ、今も好きなんだなあと驚くばかりです。
これはどうしてでしょうか。異口同音に「心がなごむ」と言われます。喘息でない女性にしても花が好きな人は沢山いるし、喘息のある無しにかかわらず花の好きな男性も沢山いるのでしょうが、特に喘息の女性の患者さんは「花に自分の心を見る」ように思えるのですが、如何でしょうか。そこから私は、二つの問題をかぎとります。
一つは、現実社会の人間関係や家族関係、人間関係の中で、人には言えぬ傷を負ってきたのではないか、その痛みと喘息が関係があり、その痛んだ感情や心を癒さんとして花を見るのではなかろうかということです。あるいは、喘息発作の苦しさのために、家族や職場で思うようにしてあげられない心の痛みが、花に投影されるのかもしれず、発作との斗いと苦しみから逃れたいとの思いが、自然の中で咲いた花に憧憬として転移されているのかもしれません。
二つ目には、自然と草木、太陽と花々のような優しさや暖かさを回復の為に必要とし、それを育てあう関係が、人間関係にも、医療の中でも必要ですねという訴えかけとして感ずるわけです。喘息の患者さんは、男も女もさしずめ、痛んだ花々にたとえられるでありましょうか。
明日、東京へ帰られる方は、金療法、漢方、整体療法、Bスポット療法、カイロプラスティック、脳下垂体の移植を何度も受けたのに、ますます悪くなってしまったそうです。プレドニン2錠から3錠を毎日飲んでもやっていけないからと、入院に来られた方でした。短歌をたくさん作ったり、手記を書く姿から“現代の紫式部”と私にニックネームをつけられた彼女は、プレドニン2錠から1.5錠、1錠、半錠、そして一ヶ月前から0にして帰ることが出来ました。その裏には、家族関係での愛憎が骨肉の葛藤にとらわれていて、真の人間愛にもとずくものではなかったという反省と気づきが、手記に綴られていました。手記を書いて、いままで抑えてきたものをどっと吐き出すことによって、夫への深い愛や信頼、家族への信頼を獲得されていったのです。すべての喘息患者が、いつの日か、こういう日を迎えることができます。
もう1人、長野へ帰られる方は、長い間の不眠や疲労、気にかかってきた問題を、一つ一つ友人や医療スタッフ、薬剤の力を借りながらも解決していきました。表情には優しさや喜びがにじみ出てくるようになりました。試験外泊されたところ、随分と明るくなったと回りの人に言われたそうです。
お2人とも、そして、X号室をこれまで退院されていった人も、現在、入院中の方も、誰一人として安穏と入院していたわけではありません。発作と斗い、点滴につぐ点滴をかいくぐっての退院であり、一時的だかもしれないけれど、安定と勝利、励ましと祝福の中での退院であります。
何が変ったのか。つきつめると二つであります。一つは「他人が信頼できるようになったこと」、もう一つは「自分が信頼できるようになったこと、自分に自信が持てるようになったこと」に尽きます。そこに至るまで自己反省、自己開拓をされたということです。
そうなるためには、「花々に対する太陽の如く」、「医療や患者同士、喘息大学やわかば会が人間に対しやさしくする」がなければなりません。信頼がなければなりません。私どもはとってもその力量が少ないし、不十分だけど、よくなって帰られる人が比較的多いというのは、患者さん花が立派だからかもしれません。やさしさで相手が変わるというのは本当のようです。私は、自分にも他人にも厳しいだけがとり得のように思ってきた人間でしたから、ここ最近女性の患者さんや花々に教えられたことが大きかったと、今頃反省、自己開拓している次第ですが、花花にしても患者さんにしても、その成長に役立つ「やさしさ」があればこそ回復が早くなり、美しい花、人間が咲くのでしょう。
男性を前号ではスズメ、女性を今号では花々にたとえた魂胆は何か?えらい差別だと抗議を受けそうです。次号はストロークについて紹介します。
14 私の受けとった幼少時のストローク
強く生きるための医学(14)
喘息大学学長 清水 巍
石川啄木や三島由紀夫は0才の時の記憶を書物に書いています。啄木は乳母車に乗っていて、「日傘の女性を明るい太陽の下に見た」のが1才になる前だったと書き、三島は「産湯につかっていた記憶があり、自分を洗ってくれた人の赤い着物が鮮やかに思い出される」と記しています。
私(昭和17年5月生れ)の一番古い記憶は1才の時であり、残念ながらそのように文学的なものではありません。いつも他人の事ばかり書いているので、今回は自分の事について少し書いてみます。福島県の喜多方という所で生れたのですが、1才の時、祖父母のいた岐阜に行ったことがあるのです。見知らぬ環境へということと長旅であったためか、幾場面かが印象に残っています。終戦前でしたから満員列車だったのでしょう。皆さんに足の隙間を作って頂いて列車の中で抱っこしてもらいながらオシッコさせて貰った1回目(当時の列車には所々に水を流せるような穴が空いていた)。2回目は汽車のデッキから走る外の景色に向けて抱っこしてもらいながらオシッコをしたという排尿時の記憶から始まっています。余程ガマンをしていたためか、ホッとして成功した快感が伴ったためか定かではありませんが、何らかの強い感情を伴ったためにシーンが残ったのでしょう。
次には、始めて下駄を買ってもらい、玄関の石に乗っていたのを見て嬉しかった場面、早朝、近くの天神様の境内で鳩に豆をやった記憶(この天神様は昨年のアレルギー学会が岐阜であった時に見に行った。面影は一致していた)へと続きます。2才に近い1才の時の記憶だったと思います。
2才になると記憶は豊かとなり、空襲警報のサイレンで母の背におぶわれ逃げ回った(子供ながら大変なんだという感はあったが、母親の背中という安心感があった)記憶その他が出てきます。3才と3ヶ月目に終戦を迎えました。私の意識の上では父親の登場はその後であります。終戦後、復員して帰って来たその時のことをハッキリと覚えています。父親との葛藤はその時から始まったと言えます。
朝、目を覚ますと玄関の方へ歩いていきました。母親と見知らぬ?大人が玄関で話をしていました。バックは白、早朝という感じでした。その男性は赤い三輪車(中古・恐らく私の1才の時に亡くなった兄のお古か?)を肩にかついでいました。その人は父親でしたが、始めて見る人と思い、何の挨拶もしまいまま座敷の方へ歩いていきました。父親の方からも駈けよってきてどうこうということもなかったようです。
重要なことはその晩の体験です。座敷で酒を飲み、母がお酌をしていました。命があって無事に戻ってこれたのだから当然のことでしょう。電気が明るく照っていました。私はつづきの薄暗い縁側で三輪車に乗っていました。行きつ戻りつしていたようです。生まれて始めて乗る三輪車です。バックした時に糊の入っていた器をひっくりかえしてしまいました。思うようにバックできず曲ってしまったためです。「しまった」と思った時、強い怒声が飛んできました。叱られた記憶の初めです。その叱りはとてもキツいものだったのです。たんに糊の容れ物をひっくり反したという以上のものです。何故、今もその時のことを思い出すと罪悪感・屈辱感が出たり、胸がキュッとなるのか分りませんでした。
現在の段階での解釈は次のようなものです。一年以上会っていなかった父親を、父親として認識できなかった。そういえばタンスの上にあった写真は、写真があった記憶はあっても中味の顔や姿の人の認識はなかったのです。母の話によると「おめえ、どっから来た人だよう。豊橋から来た人かよう」(会津弁だから言葉も悪い?)と父親の顔を覗きこみながらさかんに聞いていたというのです。「何(なん)だこの子は、可愛くねえな、せっかく遠いとこから思いを寄せて帰って来たのに」というのが父親の思いだったのでしょう。腹に据えかねていたのか、酒の勢いもあってのことか、堰を切ったように怒りが出たのです。
その後、赤い三輪車によい思い出はありません。乗っていて川に落ちズブ濡れになった記憶、父親が自転車に紐をつけて引張ってくれたのはよかったけど、角を父親は自転車曲ったのに自分は曲りきれず角に正面激突してしまったなどと続くのです。父親が悪いわけでも、子供の私が悪いわけでもありません。行き違いと葛藤の起りは戦争のなせる業(わざ)でありました。
そこから始まる私の幼児決断はどのようなものであったか、父を憎むとか恨むとかいうことは3才の子にしたらできないことですから、「怒り」のストローク(働きかけ)に対し、情けなさを感じながらも父に気に入られなければ―ということだったようです。父に許しを乞わなければという人生脚本が出来上ったのかもしれません。父親を父親と認め得なかった申し訳なさを、其の後償おうとしたのかもしれません。
考えて見れば、文学の道を断念し医者になったのも、酒を飲み、麻雀をやり魚釣りが好きになったのも、正に父親のミニコピーのようでさえあります。父の期待に添おうとする健気(けなげ)な“三つ子の魂、百まで”の姿かもしれません。そう考えるとすれば、そう責任は充分果たしたと言うことができます。もうそれにしばられる必要はないということになります。環境の中にあって自ら意志決定を下してきた道であるとすれば、それを伸ばしていけばよいということにもなります。
4才下の妹が生れた日もハッキリ覚えています。目がさめると何時もと違ったとこに寝かされていました。妹が生まれたのだと教えられました。前記の葛藤があったためか、ひがみや反抗心からか、父親は妹びいきだなあと感じながら大きくなったものです。
私が何故このような私的なことを書いたかというと、「人生の早朝の記憶というかストロークというのは、大変に大きな意味を持つ」ということを記したかったからです。木の年輪でいうと、一番柔かい時に一番内側に刻みこまれるのだから長く残るということです。長く残り、繰り返し思い起された記憶が、影響が大きいだけなのかもしれません。父との葛藤だけでなく、それ以前の母や多くの人から受けたストローク、自分の能動性・主体性はどこにあったかもいずれ書いてみたいと考えます。
人間が心身の成長をとげるためには、食物と同じように愛撫・接触・音などの生物学的刺激を必要とします。このような働きかけをストロークといいます。交流分析では話しかけやうなずきも含め、「その人の存在や価値を認めるための言動や働きかけ」とストロークを定義しています。人間が人間となっていくための、人間による働きかけと言うことがきでます。
ストロークの種類には、背定的(陽性の)ストローク、否定的(陰性の)ストロークという分類があり、肉体的ストローク、心理的ストロークという分け方もできます。次回はストロークの種類について解説します。
15 ストロークの種類
強く生きるための医学(15)
喘息大学学長 清水 巍
人間が人間として発達していくためのストローク(働きかけ、生物学的刺激)は、食物と同じように大切なものです。乳幼児期にどんなストロークを、どのように受けとったかで、その人なりの、人生に対する基本的構え、が出来上るとされていますし、成人してからも”ストロークを求めたり、避けたり与えたりするために時間を費やす”し、人間の行動の動機は、すべてストロークから成り立つとさえ言われているのです。人間について理解しやすくするために、まず、猿の実験結果について見てみましょう。第一はハロー研究です「サルの新生児を社会的遮断状況に置いて成長させ、12ヶ月後にサルの社会に戻しても交渉がもてなかった」、「サルの姿だけ見せてガラス越しに育て、身体的接触のできない状況に置くと、じっと動かない、虚空を凝視する。自傷行為をする奇妙なサルとなる」と報告しています。
川部寿美子は「群れの研究」で、6年間7匹のサルを単独隔離して成長させ、和歌山県の無人島に放した報告をしています。何年たってもこのサルは群れを作らず、独居生活を続け、メスザルにプロポーズすることさえ知らないので、その無人島には赤ちゃんのサルが誕生しなかったというのです。
猿のような動物で、より本能的で野性的に自然に生きる動物でさえ、家族や仲間、ストロークを生きるために必要とするのです。親の愛情やストロークが大切であると一般的には考えられがちですが、子供の側の愛らしさも大切です。もう一つのハローの実験ですが、自閉的な子ザルを親ザルにあてがうと、一生懸命面倒をみてくれるが子ザルが一向に反応しないと、だんだん面倒をみなくなるというのです。赤ん坊がやがてニッコリと笑うから、親も回りも一生懸命に尽すのだと言えましょう。
患者さんしても、年がら年中、症状のことばかり言い、不満や発作ばかり口にして、他人の指摘に謙虚にならないと、誰もよいストロークを与えなくなってしまうものです。上辺(うわべ)だけのありがとうでは、真の暖かいストロークを与えたりもらったりすることは通常はできません。ですから、ストロークというのは与える側の問題だけのように見えるけども、実は働きかけられる側のありよう、受けとる側の問題でもあるということを第一に押えて下さい。第二に、ストロークの質には肯定的(陽性の)ストロークと否定的(陰性の)ストロークがあるということです。肯定的ストロークは相手に幸福感と自信を与え、その存在に意味を感じさせ、これを受ける人は心の糧にして成長します。否定的ストロークは「あなたはダメだ」というメッセージであり、相手を不愉快でゆううつな気持ちにさせ自身を失わせます。一番悪いのはストロークの無いことだというのは先の猿の例でお分りでしょう。否定的(陰性の)ストロークでも無いよりはましなのです。人は陽性のストロークが得られないと、相手を怒らせたり心配させたりして、注目や愛情を得ようとします。
喘息の人の場合、通常、自分の親や家族、あるいは会社の上司、あるいは医療スタッフにこぶしを振り上げて、「もっと陽性の暖かいストロークを寄こせ、降り注いでくれればこんなことにならないのだ、こん畜生!!」と、本当は訴えたり殴りつけてでも、誰かに陽性のストロークを要求したいのだけど、それが出来ないので振り上げたこぶしで自分の胸を打ち、自分を痛めつけヒューヒュー、ゼーゼーとなっている人があります。陽性のストロークが得られないからと、陰性のストロークを自分で自分に与えているわけです。
ではどうすればよいか、第一には、自分で自分の気管をしめる、胸をたたくことを止めることです。ということは、自分の親や家族、回りの他人、誰かを責めることを止めねばなりません。本当に愛したい、愛してもらいたい人に、自分から陽性のストロークろ注ぎ、愛を注ぎ、自分も少しはもらえるようになることです。
第二には“幼児性”から抜け出すことです。素晴らしい心理カウンセラーの国分康孝さん(東京理科大教授)は「心とこころのふれあうとき」(黎明書房、1400円)の本の中で、暖かい人間関係を正常に築けない最後の理由として幼児性をあげています。
「幼児性とは、人に面倒を見て欲しい、ちやほやしてほしい、甘えさして欲しい、という(1)依存性、人は自分をかまってくれるはず、世の中は自分中心という(2)自己中心性、人は自分の考えに従ってくれるという(3)万能感、自分は立派な人間だという秘かな(4)ナーシズム、この四つをワンセットにしたのが幼児性である」(一部改編しました)大人がこれをチラチラさせるようでは、よいストロークはもらえないのです。
たとえば、 30分、1時間と長電話するとします。そういう人は1時間半しても満足するということはないでしょう。かけられ聞いてくれるような人は心の広い人です。沢山の人から電話があるでしょうから、お話し中の電話の向うでイラだち何回もダイヤルしているはずです。30分もかけるような人のとこには、かけるととんでもないことになるからと、あまり多くの人はかけなくなるものです。
外来でも、もっとよいストロークを投げかけたいなと思っても、点滴をブラ下げながら.1週間前からあったこと、咳とゼーゼーについてこと細かにどこでどうなって、どうなったと延々と毎回、話す人がいます。一体、そんなことを医者と看護婦に長々と言い聞かせてどうなるというんだろう。要は発作があったという事だけなのに、フト、母親にこと細かに報告する娘、息子の姿かなと思います。排痰の換わりの排言であり、診察室とカルテが蓄痰ビンの換わりかもしれません。そういう人はこっちのいうことは何をしてくれるか以外耳に入れず、聞かず、しゃべり終ると点滴を持って出ていきます。要は、相手の立場が考慮できないと本当の意味での暖かいストロークはもらえないし、受けとれないということです。
もっと大切なストロークの与え合いを家族、友人間で、医療スタッフとの間でなすことが大事です。翻って考えれば、乳児期には肌のふれあい、幼児期には承認(心のふれあい)、大人には時間の構造化(生きがいの欲求)がストロークとして大切なのです。それぞれの時期に大切であると共に、現在も肌のふれあい、心理的なもの、言葉によるものがストロークとして大切です。これまで充分な受けとりや与え合いに不足があったればこそ、今からの時間、日々の中で与えあいが必要であり、不足のキチンとした修正が必要なのです。
交流分析で言うならP.A.CのA(大人の部分).理性を磨いて得るようにすることが大事です。喘大四期生の卒論集、図解喘息大学、ふれあいの心理学(いずれも喘大事業部でとり扱っています)等を購入されて勉強して頂きたいと思います。よい本と出会う、紹介しあうというのもストロークの与えあい、受けとりあいの1つです。
16 自省―二つの課題
強く生きるための医学(16)
喘息大学学長 清水 巍
多くの通年性の喘息の人の場合、薬を何年飲んでも本人が変らなければ、薬を止めると喘息が出てきます。他人が2年飲むなら私は辛棒して3年ないし4年飲むから治るだろうというのでは、甘いようです。薬を飲む期間よりも、患者本人の変化の質、あるいは変化の量によって、喘息はよくなったり、悪くなったりするのではないでしょうか。
変化のためには教育、鍛錬、交流療法が大切であります。これは喘息患者会、入院、喘息大学ゼミナール、喘息大学で可能です。ここまで進んでよくなる人は沢山いますが、それでもいまいちと言う人は「自省」というレベルを済ませ、「矯正」という段階で修正し、「実践」で検証し、変化を確実とせねばなりません。ここで、「自省」を成功させるための二つの課題について、お話をしましょう。
ある男性の患者さんは、吸入と点滴をしょっちゅうくり返していました。「また、やっちゃったんです。分ってるんです」と言いつつ喘ぎます。その姿は、点滴につながれているのが母親との「へその緒」につながれているようで安心だという姿なのです。吸入している姿はオッパイを吸ってる姿、安心感とダブって見えるのです。唇の回りの筋肉が「へ」の字になってる時は泣いてる姿。「V」と両端が上向きは笑ってる顔なのです。両端が上がったり下がったりがどうも激しい。イギリスのディビッド・ボアデラ氏によると、「口唇の回りに障害が残る人は、授乳期、乳児期に何か問題があった人である。」というので、その男性患者さんに乳児期に何か問題がなかったか聞いてみました。本人は聞いていないというので、電話でお母さんに連絡をとってもらいました。すると矢張り問題があったというのです。難産で、なかなか胎内から出ず鉗子分娩であったこと、離乳が年を経てもできず、しまいには乳首に絆創膏を張って飲むのをイヤがらすようにして、やっと乳離れしたというのです。母親の胎内に戻りたい願望、吸入から離れられないこと、親からの自立がいまいちであった原因を、ここまで辿ることができ、この患者さんは自立、再自立への歩みを開始しました。やっと発作がなくなり、口唇は「-」か「V」を維持するようになり、退院となりました。この男性の場合は、乳児期から問題がありました。
先のボアデラ氏は、乳児期だけでなく、人間にとって母親の子宮の時代さえ問題にしています。白人、黄色人、黒人を問わず、母親の胎内には緑色・赤色・青色の三色しかないというのです。子どもを産んだことのあるお母さん方、ご存知だったでしょうか。胎児が宿った時、緑色なら快適で安心、赤はきゅう屈で押されてる感じ、青い子宮の中では緩(ゆる)んで疲れてしまうというのです。母親の体の緊張の差によって違いが生まれるし、それは文化や時代、人類を越えたものというわけです。緑の安全な子宮の中でこそ、胎児は順調に発育・成長するというのです。アーサー・ヤノフは、「プライマル・セラピー」で、できて欲しくないと思われている赤ん坊は、子宮の中ででも苦痛を感じていると主張しています。赤ん坊は誕生の瞬間にも苦痛を覚えているので、必要以上の苦痛を与えてはならず、自分が一番いいというのです。
何故、このような昔のことに強調点を置くかというと、このように昔のことでも人間の生い立ちや成長と関係があるのだから、幼児期、小児期の問題はもっと強烈に影響を残すということを知ってほしいからです。自分の記憶の始まる幼児体験というのは、とても強烈であったということです。記憶に残ってくる時期がもっと大きな影響を持つのは、私の考えるところでは、それまでは受身的だったのに、幼児なりに能動的に自分で自分の頭や感情、身体に絡印を押すという過程が加わるし、何回も思い出してはその絡印をなぞり、深く消えぬものとしてしまうからです。
そうするとこの幼児体験、小児の時の体験(幼児決断ともいう)の再決断が必要です。小さな子供なりの生き方や決断、考え方をグルーテング(アメリカ)は「小さな教授」と呼んでいます。この「小さな教授」を頭に残し今も生きてるし、考えてるという人は意外に多いようです。同じくアメリカのミッシルダインは、「幼児的人間」(黎明書房2700円、この本は難かしいけど、とても面白い)という本で、「誰でも人は幼児期からの自分と大人の自分を二つ持っている。だから結婚生活には4人が関係し、結婚している。それぞれの幼児期の自分、2人の大人、この4人である。靴下を脱ぎ捨てたり、甘えたがったり幼児が顔を出すと、分り合っていれば問題ないのに、どうしてこの人は大人になったのに―と思ってしまうことから悲劇・喜劇がくり返される」と書いています。姑さんも幼児を維持して譲りませんから、3人住むだけで6人同居となるのです。
喘息の人の場合、この幼児からの自分と現在の自分との葛藤が、とても問題が大きいようです。小さな時からの自分を成長させ、自立させる過程を”再決断”と言います。「小さな教授に」お礼を言い、尊重しながら、感情とともに成長を促すことが第一に必要なのです。それを大人の自分が上手にやっていかねばならないのです。これが「自省」の第一の自立の課題であります。
第二の「自省」は、大人になってから固めてしまい過ぎた部分への反省です。右手ばかり使いすぎて障害が出た人が、右手ばかり使う過去と現在に執着していたらどうなるでしょうに。右手は悪くなるばかりであり、困るのは、本人です。どうすればよいか、右手を使わないように修正するか、左手、口、足なども結構使えば役に立つと、修正することです。右手をカバーするだけで、右手も随分と楽になるし、回復が早くなるでありましょう。喘息の人はこれができないのです。同じ顔、同じやり方に固執し、憑(つ)かれたように同じ自分をやっていくのです。「それではダメよ」と、喘息がせっかく出てきたのに、自分を変えられないのです。喘息発作を起こし、点滴をやり、暗い顔をしている人ほど、「自分には悪いとこはない。知らない、聞くのもイヤだ、改善すべきところなどありません」と、すぐ反発します。
私の尊敬する人や喘息の良くなった人は、「よいとこ半分、あと半分は反省・改善すべき」といつも言っているのに、ステロイド漬け・点滴漬けの人は、聖人君子の次に偉いのか、自分には悪いとこが無いと言うのです。人間は同じ顔、表情、同じ筋肉の使い方、考え方、パターンを続けていると疲労が貯ったり、問題が出てくることがあるのです。残された別の部分を開発し、表情も違ってこないと喘息はよくなりません。
幼児期、成人期どちらの点でも自省して、両方をよい自分につくり変えられると、随分と楽になり余裕がでます。
17 変化の指標
強く生きるための医学(17)
喘息大学学長 清水 巍
これまでの"来(こ)し方"を振り返り、"残りの人生と日々をどのように行くべきか考え実行する"―これを「自省と矯正の段階」と私は名づけました。この段階には三種類の過し方があるのです。第一の過し方は、"これまでどうりでどこが悪い、何の変化もなし"群です。第二は、"頭(理性)では分ると言いながら、感情や視床、視下下部(自律神経の中枢)のレベルまでの変化は起きず、葛藤と発作をくり返す"群です。第三は、"感情や心の気づきも深まり、表情・言動・行動も変化してくる"群です。
その変化はどこで分るか。誰にも分る指標があるのです。第一には"目"です。目に輝きが少しずつ現れ、精神的な余裕と希望が見えてきます。次に"表情"です。よく「顔に書いてある」という表現がされますが、日本人と喘息の人は正直です。<注>顔の表情は全てを物語っていると言えましょう。ポーカーフェイスとか、仮面、猫かぶりと言って、一見、わかりにくいことがありますが、それは一つの魂胆を物語っているし、見る人が見れば分るわけであります。三番目は"口唇・言動"です。口が正直に自分の思いを語るようになります。四番目に"声の張り・調子・勢い"に変化が来ます。喉頭部や声帯の筋肉にも変化を生じるからであります。ここまで変化の現われてくる人(見せかけではなく)は、5番目に待望の"気管・気管支の平滑筋が緩るみ"喘息発作が出なくなり、安定します。6番目に"横隔膜筋・腹筋"そして、補助呼吸筋の"三角筋・大胸筋"なども正常に深く作働し、呼吸も深く安定してきます。「喘息がよくなり、発作が楽になってきました」ということで、本人にも他人にも分るわけです。
喘息の症状が無くなり、よくなるからその結果として、目、顔、口の筋肉もよくなるのである―確かにそれは一面の真理を語っています。喘息がよくならなければ表情も冴えません。発作がなくなり苦しみもなくなるから、目にも精神的な光りが宿り、深まってくるのです。しかし、もう一面の真理があるのではないでしょうか。ケナコルトを射って発作を起こしたくても起きないようにしても、表情は以前に戻るだけで、不安の影は本当は消えません。東京にケナコルトをいつでも何本でも射ってくれるところがあるのですが、発作予知だけで全国から集まる人の表情はみんなとても暗いのだそうです。吸入し点滴し、発作がなく喘鳴もない状態ができても、目や表情が特別に輝いて見えるわけではないのです。症状の有・無だけではなく、本当の意味で、気管支平滑筋の異状緊張、過剰緊張がとれ弛緩してくるから―即ち、本当に喘息という病気がよくなるから(症状だけでなく)、顔の筋肉、目の筋肉も正常化し、張りが出てくるのではないでしょうか。脳の深部・脳幹部がよくなるから、上も下も輝いてくるのです。
喘息の人の"自省"が進み"矯正"の段階で気づきが深まり、自信がついてくる姿を見ると、たんに"症状がなくなった"のでもなく、"喘息がよくなった"だけでなく、全身の筋肉の異常・過剰緊張がとれて、"人間として正常化し、健康人間、成長人間"に生まれ変わったように感じます。それは自他共に認められることであり、人間の誕生、再生に近い姿であります。本当の意味で自立していけるようになることは、身体の"自律"(正常な機能状態)が現われるわけであり、感情、理性のセルフコントロールが可能になるということです。
従って、変化の指標は、"目、顔(表情)、言動、発作状態、呼吸、声"であるということです。更に、そういう人の手や腕は"手記"や"日記"を書くことであろうし、愛や喜びを作り与えるし、足は大地を歩き、自然や分化の息吹きを上半身に与えてくれるでありましょう。筋肉の鎧化(ウィルヘルム・ライヒ、―この人についてはいずれボチボチと紹介します。)がとれてくると、内臓の鎧化もとれてくる。骨盤の筋肉も改善し、セックスや内臓の働きにもよい変化が起るそうであります。頭の中の鎧化もあると指摘されていますよ。
では、どうして筋肉と感情、理性(知性)が連ながっているのでしょうか。上の図は感覚として身体部位を司(つかさど)る脳の範囲、下は運動を司る範囲です。顔と口唇、手足がいかに広く占めるか分ります。理性(大脳皮質)と感情は、全て筋肉を使って表われているのです。筋肉を使わない自己表現などはないし、大脳全体の変化、深部の変化は種々の感情を思い起こさせ、前と同じ理性を思い出させるのであります。生まれた時から今日まで、連動・連携を繰り返してきたのです。
赤ん坊に触ってあげないと脊髄が萎縮するの諺が交流分析にありますが、矢川徳光は"教育とは何か"(新日本新書)で、石川宏子さんの教育実践「子どもらの脳髄に光を、人間としての生命を」を称賛し、教育の根源がここにあると書いていますが、母親のタッチも、教育も、医療も身体を通じて脳髄に働きかけがあると言えそうです。
身体の筋肉と感情についてライヒの考えを継ぐデニス・ホーナーさん(日本のバイオエネルギー研究センター責任者)は、何と、金沢に住んでおられたのです。その方の紹介で、ワークに来日したウィル・ディビスさん(ヨーロッパで活躍中)とともどもお話し合いをする機会を得ました。ホーナーさんの目や表情は静かな湖のようであり、ディビスさんの青灰白色の目は瞳から空が覗いて見えるようでした。ホーナーさんの奥さんは日本人ですから黒いのですが、キラキラとリスのように輝いていました。私の目は残念ながら充血し、疲れ、どんよりとしていたのではないでしょうか。話は有益でした。ペーパーになっていない喘息の治療法の一つを伺うことができました。次号で紹介することにしましょう。
〈注〉 日本は島国、諸外国の各種人程の混合は見られず表情は緩んでいるといえます。喘息の人は、喘息に目を奪われているので、不安、心配が表情に出ます。
18 直面化を恐れるな
強く生きるための医学(18)
喘息大学学長 清水 巍
ウィル・ディビスさん(前号17で紹介したヨーロッパで活躍中のワーカー)と話し合いをしていた時です。ディビスさんが目を輝やかせながら、ヨーロッパで喘息治療を主に行っている友人のボディ・ワーカー(ウィルヘルム・ライヒの流れを汲む"生体エネルギー療法"の実践者で、身体に働きかけながら生命エネルギーの流れを改善しようとする指導者)の話をしてくれました。
これはペーパーにまだなっていない話なんだけれどもと前置きし、「喘息の人は首の回りのとこの筋肉が固くなっていて、そこでエネルギーの流れがブロックされている。眼と眼を見合わせながら、右手を首に巻き、治療者に近づけるように引き寄せながら、ウーとかアーッとか声を出させると、首のとこの筋の緊張がとれ、感情が流出してくる。」と、自分の聞いた話として語ってくれました。「ヘエー、そうですか」と驚きつつも、なるほどと思い城北病院に戻ってきて、ある患者さんにやってみました。
その人の筋の緊張も強く、一日中の思考の90%が喘息の症状で、口を開くとは「腹式と排痰がいまいちで、下手くそだから」という人でした。長い入院中に、この間、初めて空に雲が流れているのが目に入り、そう言えば小さな時に空を眺めて、"雲がパンのような形をしている"と思ったことを思い出すことが出来た―と、やっと喘息以外のことを語れるという人でした。目と目を見合わせながら首に手をかけ、私の方に引っ張ると、首が曲がるだけかと思ったら、まるで電柱が倒れてくるように上半身全体が前に来てしまうのです。頚も肩も、上半身全体が硬化していたのです。
筋肉が、不安と喘息の症状の恐怖で、コチコチになっているのです。感情が流出してくるのは、唯一、目からでした。ゆっくりと話し合っていると、社会復帰への不安、過去の精神的外傷がまだ残っていること―、そこに触れると涙がとめどなく流れ、溢れてくるのです。「もう過ぎたことだから分っているんだけども―、頭の腹式・排痰(古い考えを捨て、新しい考えを身につけていく)は、ちっとも分らない」、「看護婦さんや先生に言われるんだけども、昨日言われたことは少し覚えている。だけど、胸のヒューヒュー、ゼーゼーと痰が気になって」と、ティッシュペーパーで涙をふくことになります。
この人は、目から感情を出すことができるから、まだよいのですが、どうしてこのようなことになるのでしょうか。
過去に出会った不安、恐怖、不信を言語化、文章表現化して処理することが十分にできぬため、筋肉を硬化させて、それだけでも足りず喘息発作で自己防衛をしてしまう図式を、身体が習得してしまったのです。自我の感情機制も強くなるのですが、それでも足りず喘息が出てくることになったのです。下図を御覧下さい。
人間は誰しも核心に生、エネルギー、愛を持っています。これがスムーズに出たり入ったりしていれば、筋肉も硬ばりません。感情の層で不安、不信、怒りが蓄積し、これが筋肉によってブロックされると筋肉の緊張が強まります。それが"筋肉の鎧"となり、不安や怒りの表出を妨げるだけでなく、生命のエネルギーや愛の表出も妨げるのです。こうして筋肉の鎧はその人の性格となります。そして、外界に対しては、そういう自分を守るため1の自我の層が形成され、防衛機制としてエネルギーを内部に貯め消耗させます。
これまでは、その結果、筋肉の層の緊張が強まって喘息が出るものと考えていましたが、筋肉や自我の層だけでも、自分を守りきれず、症状の層(点線・喘息)でもう一つ外側に円を描いて守っているのが喘息の人ではないか、と考えるようになりました。肩こりや偏頭痛は、喘息の人もそうでない人も起り得るし、1(自我の層)~4(核心)までがスムーズでないと、いろんな他の疾病や症状が全ての人に起こってきて、その人を包みはじめるからです。
長い間、夫婦をやっており、姑や嫁、親戚・職場の人とも長くつき合っているから、1~4までが深い信頼と愛、尊敬、感謝が溢れて、それ以外はないとなればよいのですが、歪みが正されないとストレスが蓄積されることは明らかでありましょう。こういうように考えれば、どうせねばならぬかということが明らかとなります。IgEが高いから、気道過敏性が高いから重症なんだ、○○だから治らないというのは、防衛や抵抗の一つに過ぎません。1(自我の層)、2(筋肉の層)、3(感情の層)をまとめると、ユングによれば下図の仮面(ペルソナ)となります。4(核心)がペルソン(本当の私)です。
仮面は、儀礼とか潤滑油の役割も果たしますが、あまり強いと鉄仮面のようになって、エネルギーが外に出にくくなります。あまりにもうまく出来すぎていると、「どうしてでしょう」が口ぐせとなり、自分のどこが悪いのかが分らなくなります。学校の先生などに多いようです。誰しも自分の仮面を持ってることに気づいてこそ、本当の私を表現できるようになるのです。よい子の仮面、他人と較べて自分は劣っていないから仮面なんてない。いずれも深く検討し直さねばなりません。成人喘息の背景にはこういう問題もあるのですが、その気付きや解決が難しいから、慢性化、難治化、重症化が起こるのです。
従って、難しいからと言わず、一つ一つの問題に直面化し、恐れずに解決を、外側から、内側からと両方から穴を開けるように行ない、ベールを外からも内側からも剥いで、エネルギーがスムースに出入りするようにすると、よくなるのです。直面化を恐れない人、勇気を持って毎秒々々成長する人がよくなるようです。成長への努力、リラックスの工夫・努力は、毎秒々々行うことによって、やっと少しずつよくなっていくのです。
症状に隠れ、防衛や抵抗にて身を守り、筋肉を固くして疲労し、面白くない顔や表情、動作をしている自分の姿に気づき、それを認めるのです。認め直面化してそれは何故なのか、どうすればよいのか考えてこそ、分析が進むと言えましょう。自分の内面の困難に直面化し、それを解決すること。正面からぶつかっていけなかったのは、乳児期、幼児期にそうであったからかもしれません。その結果が現在に及んでいるならば、現在を解決できれば過去の問題も解決したことになるし、将来に尾をひくことがないようにできるのです。
次回は、直面化して、表情も生き生きと変わり退院したのに、もとの木阿弥に戻る人と成功している人の相違点について書きます。
19 学習の転移
強く生きるための医学(19)
喘息大学学長 清水 巍
「直面化して乗り越える方法」と題し、第9回目の特別講座を城北病院で行いました。かなりの人の胸に、思いあたることがあったようです。録音テープを後から聞きなおして気づいたのですが講座の最初は咳こみや咳払い、ザワツキがあるのですが、話の途中から全くシーンと水を打ったように静かになっていました。喘息の患者さんは自分に思いあたる所をガンガンと話され、頭が洗われるような気持になると、喘息を忘れてしまうようです。講義が終わってから、外来の患者さんはエレベーターに乗って下へ、病棟の患者さんは各自の部屋へザワザワと話をしながら戻るのですが、その日の午前中、講義が終わってから吸入しに来た人は、一人だけでした。いつも昼頃になると、吸入室にズラーッと人が並ぶのに、この日はガラ空きでした。それぞれが思いあたることがあって頭が一杯だったのでしょう。
ということは、思いあたることに直面化しそれを乗り越えようと真正面から立ち向かおうとすると、不思議と胸が楽になるのです。逃げようとしたり隠そうとしたりする自分が出てきて葛藤を起すと、喘息発作が出てくるということを示唆しています。治したくない自分、まだ治りたくないと思っている無意識の自分がいるのではないか、喘息は防衛の手段として、あるいは、抗議の身代わりとして出ているのではないだろうか。それに気づいた人は"恐ろしい気づきです"と語ります。"恐ろしい気づき"に直面化し、逃避・防衛していた自分を認め、逃げようとしたり、隠そうとしたり、他人と比較して自分を責めてばかりいたのを、そうしなくてもよいように生き方や考え方が変化すると、喘息が起こらなくなります。
何故でしょうか。自分を責めたり、劣っていると感じたり、表面をとりつくろう気苦労や不安が消失し、平静に自分にも他人にも接することができ、自分の現実に感謝できるようになるからです。そういう心理的な要因と喘息が結びついただけとするなら、その心理的要因をこそ解決することが、本当の"直面化"なのです。勇気を出してその実践を続けることこそ、喘息になってきてしまった道を逆に辿って脱出する、唯一の解決の道であるわけです。
城北病院や喘息大学、あるいはこの"わかば"の紙上で、強く生きるための医学として、その指導をしています。しかし、すぐうまくいかぬのが人間の習性です。ですから、葛藤が起き、防衛機制が強く出て、その分が発作となって出てきます。「まだうまく解決していませんよ」という身代わりとなって、症状はしつこく現われるわけです。ですから、喘息を根治していくためには、二刀流で、宮本武蔵の如く左右の剣を使いわけて、佐々木小次郎という、長い剣を持ち、"燕返し"という鮮かな電光石火の技を持った喘息君を、切り倒さねばならないのです。二刀流の剣は、いうまでもなく、対症療法という防衛の左の剣、根本治療という攻撃の右の剣です。どちらが拙くとも、小次郎の喘息君にやられてしまいます。
城北病院に入院すると、「どうして、こんなによくなってしまったのでしょう。不思議だ」と言う人が多いのです。「喘息はどこへ行ってしまったのだろう」、「もう大丈夫、治りました」、「終わりました」とか、気づきも深まったり、腹式呼吸、排痰の術も覚え得意満面になってくるわけです。頑張ったり、優秀な人は手記も書き、日記も書き、表情も生き生きと見違えるようになって、退院の日を迎えるのです。一抹の不安はあるにしても、これだけ修業したのだから何とかなるだろうと、軍艦から離れ、小船に乗り移って、自分のとこで頑張ることになるのです。
そうです。城北病院での二刀流の修業は、軍艦の上での修業なのです。喘息という小次郎をやっつけるために、やられっぱなしでは困るので、左の対症療法にしても、右の根本治療にしても、沢山の患者さんを見てきた医師や看護婦さん、同病の患者さんの有形・無形の指導や必要最低限の対症療法の助けを借りながらやっているわけです。軍艦の上という安心感もあります。私は、退院のとき、よく患者さんに言います。「ここは城北病院という軍艦です。これからは小舟を上手に操って、喘息とたたかって上手に生きていかねばなりませんよ」と。巌流島まで辿りつき、見事に小次郎をやっつけて、自信を持ってよくなっていく人もいれば、途中で転覆したり、辿りついても"蜂のひと刺し"ならぬ"燕返し"であえなくダウンする人もいます。
その時が問題です。元の木阿弥に戻ったと悲観したり、"やっぱり城北病院でもダメなのだ"と、責任を転嫁したりせず、二刀流の使い方の不足を反省して頑張っていくことが、"学習の転移"なのです。城北病院だって発作が起きた時は使うんだから、ステロイドを使ったっていいではありませんか。城北病院で入院していたんだから、また入院ということになったって仕方ないし、いいではありませんか。それが現実なら受け入れて、二刀流の技を性根を入れて再び磨いていけばよいし、それ以外に生き延び、かつ、喘息君を克服できないんだから、直面化し、認めればよいのです。それを、退院してきたばかりで恰好が悪いとか、よくなったと思ったのにと、甘い期待が裏目に出たことを嘆くようでは、十分な学習をしたとは言えないのです。
ステロイドを、毎日1・5~6錠、長年飲んできて、転んで骨折し、遠方から城北病院に入院され、何回かの骨折も治り、ステロイドを0にして発作もなく退院された方がいました。実に立派なキッチリとした方でした。(ステロイドは)もう二度と飲みたくないと語っていたそうです。「発作が起こったら、こういうステロイドの入った点滴をしてもらうことも有り得ますよ―」と話しておいたつもりでしたが、不足だったのでしょう。城北退院後、発作が起こってきたけども病院に行かず、重積となって、救急車に乗って行った時はもう間(ま)にあわなかったという、とても心痛むいたましい事件に出会いました。これも私が出会わなければならない残念な現実であれば、それに直面し、その死を無駄にしないこと、その方が教えて下さったことを学習し、皆さんに伝えることが必要です。
(退院して)地元へ帰っての失敗は、"死"と"あきらめ"、"あいもかわらず仮面と過剰すぎる薬物療法だけ"という場合のみ、です。二刀流を上手に使うこと、特に根本療法を、自省、矯正を含め継続、実践しようとする人は、たとえ再入院しても"元の木阿弥"に戻っている人はありません。小次郎に再度させられただけであり、やがて勝てるようになっていくのです。城北病院や喘息大学、わかば会で学習したことを、実践の場に転移し、生かしていく人は必ずよくなるのです。
国分康孝さんは、エンカウンターという本の中で、エンカウンターしても日が経つにつれて元の木阿弥に戻る理由として、「学習の転移が行なわれなかったからである。洞察が足りないからだと思う」と述べておられます。
次回に、もう少しこの問題を深めてみましょう。
20 自己洞察
強く生きるための医学(20)
喘息大学学長 清水 巍
国分康孝さんの「エンカウンター」という本から直接引用させていただくことにします。
「エンカウンター(心とこころのふれあい)のあるセッションで感動のあまり泣いたとしよう。それを感動のままとどめておいてはいけないと私は思う。何故感動したのかを自分なりに洞察しておかないと持続しない。抑圧感情が急に表出したのだと洞察すれば、自分にはその感情があるのだから、絶えずそれを表出するように心がければいいわけである。・・・・(中略)・・・。メンバーに共感して自分も一緒に涙するだけでは不十分だと思う。自己覚知だけでなく、自己洞察が必要である。
学習の転移がおこりにくい第二の理由は、『文化的孤島』に固執するからである。・・・(中略)・・・。文化的孤島での自由ではなく、現実社会の中での自由を獲得するすべを学習することが大切だと思う。・・・(中略)
第三にエンカウンター・グループ解散直前のオリエンテーションが大切である。・・・・(中略)。むかしはノーといえなかったので屈辱的であったかもしれない。しかし今はちがう。エンカウンター体験のおかげでノーといえる。ノーといえるけれども、そういわないだけである。ノーといいたくても言えないのと、言おうと思えば言えるけれども言わない、のとでは雲泥の差がある。
この識別をつけず、日常生活でもエンカウンター・グループのつもりで、喜怒哀楽を表現すると、人間関係がまずくなるのは当然である。そこでエンカウンター体験を放棄さぜるを得ない。学習の転移を目から切断する結果となる。・・・(中略)」
学習の転移が起こらなくなる理由を三つ挙げておられます。退院前のオリエンテーションについては私たちの責任ですが、洞察と自分の生活点での応用は、患者自らが責任をとらねばなりません。そして最後に、これらがうまくいくためには「エンカウンター時代の友人との接触が、生きる意欲の源泉になっており」、「父母がいるという意識がわれわれの人生の原動力となっているのと同じだと思う」と結んでおられます。
以上の引用文は、城北病院入院中にできたグループ、喘息大学や各地の患者会、同時期通院中の仲間達にもあてはまることです。そこで暖かい人間関係をつくり、本音を言うことができたり、聞くことができた―そういう体験や自信をたえず転移し続けていくことが必要です。しかし、全ての人とそれが結べるわけではありませんから、友人や先輩、後輩、師を大切にしながら、肝腎なところでは拠りどころを持ってやっていけばよいのです。
しかし、「言うは易く、行うは難し」です。うまくいっている時はとんとん拍子で何でもござれですが、一つけつまずくともう修復不能、後ろ向きとなって戻ってしまうということが、よくあります。単細胞のゾウリムシなどを顕微鏡で見ていますと、一斉に一つの方向に向かって動いていきますが、障害物に出会うとまた一斉に元に戻ってきます。迂回したり、立ち止まって考え、更に上へ乗り越えていくということが見られません。後向きの時の"気づき"は自信を失くしたり、悲観ばかりが目に入ってくるのです。自分は今、前向きに考えているのか、後ろ向きなのか、斜め外向きなのか判断を下して、時には他人に指摘してもらって、前向きになって気づきを深めていく必要があるのです。
自己洞察が深まるということは、今まで気づかなかったことに気づくということです。「健気(けなげ)だったのネ」と二回も言われて、やっとそういう自分があったと認められたという人、甘えたいということが、言葉にも意識にも上がらせることができず、吸入と点滴、果てはボスミンを要求していた自分に気づいた人、何故、自分は舌が荒れるのか不思議だったが、痰をとる時いつもチリ紙で舌を満足させようとしており、授乳期に淋しい思いをさせられていたんだと気づいた人、小さな病気をすれば、親が心配してくれて安心できた記憶が戻り、今の姿と同じだと気づいた人、父母の愛と関心を確めたくてヤンチャを言ったり、喘息をやってきたことが分った人、都合が悪くなると発作を起こしてあてつけて生きてきたと気づいた人、実に色々な気づきがあるものです。気づき認められると、仮面が一枚はがれたようにその分だけ楽に生きることができるのです。
10月の特別講座「学習の転移」と時、「私にも対人恐怖症となる幼少時の経験があり、それは今もひきずっている」という話をしました。城北病院に9月から来て下さっている心理の先生も、「私は対人恐怖症があるので、散歩しながらとか、箱庭を介した方がやりやすい」と語っておられました。なかなか退院できない人や、打ち解けて話しができない人に「あなたは対人恐怖症があるんじゃない?」と聞くと、「とんでもありません、私にはそんなものありません。」と返答するのです。城北病院では私と心理の先生がいちばん対人恐怖症で、患者さんは違うということになりかねないのです。違うのではなく、自覚がないか、そんなこと思ったことも考えたこともないだけなのです。
私の夢についてお話をしておきましょう。いつもよく見る夢は、汽車や飛行機にどうしても乗り遅れたり、自分が目的地へ行こうとするのに車が無かったり、発見できない、学会の発表に間にあうことができない、万策尽きて困っているとこで、いつも目が覚めるのです。一度、原稿を忘れていってスライド見ながら、弁慶の勧進帳をやった経験があったり、遅刻や失敗したらあかんといつも心の中で心配しとるから、そんな夢ばかり見るのだろうと思っていたのです。
先日、やっと気づいたのです。自分の小さな自我で何とか生きよう。目的を実現しようとしているけど、「それではダメだよ、けしてあがいても今のお前ではまだダメ」と無意識の世界が教えてくれていたのだと。人間を、今のおまえ程度の医学や人格で割りきってはいけない。宗教や人間の無意識、個人無意識、集合無意識、10億年前からの生命の歴史、三万年前からの人間の営み、そんなものみんな内包して人間もお前も生きているんだよと、生き方考え方の方向転換を夢は示唆していたのです。もっと広く深く考えていかんとあかんのか。そういうことに気づいてからは同じような夢は見なくなりました。無意識の意識化が一部起こったのです。
夢で息苦しい目に会うことがなくなりました。病気の喘息だけでなく、その後ろにある人間の喘息を治すためには、自己洞察が必要ではないでしょうか。自分の我を修正できるかどうかは、気づくところから始まるのです。