管理人のお話/わかば4月号5/関連する喘息手帳9

□管理人のお話・・・喘息を克服するためのHPですの管理人・徳田さんが
ITわかばの発送にあたり、以下の文を添えて下さいました。
とても貴重なお話であり、喘息ホットニュースでも紹介させて頂きます。
このような体験の持ち主が、第10回成人喘息ゼミナールの「喘息改善」の体験交流会で助言者として、お話をされます。
あなたもそのようになれるのではないでしょうか。ゼミの参加はもう打ち切られ
でおりますので、せめてわかば会に入会され、ITわかばでも、郵送[:郵便局:]会員わかばでも、お読みいただければと存じます。
・「喘息を克服するページです」の掲示板に書き込みが
あったように、先月4月26日に私の母が80歳で亡くなりました。
わかば会の皆様には生花、弔電、多くの皆様におまいり
いただき、ありがとうございました。
今回は、この亡くなった母と私の喘息について書かせていただきます。
 私も成人喘息患者の中でよくある、小児喘息でした。
子供の頃よく気管支の狭窄を起こし、ヒューヒュー喉を
ならしては、小児科の先生に診ていただいておりました。
そのころは飲み薬もなかったように思います。
 発作時に吸うようにと「メジヘラーイソ」を何本か
いただいて、吸っていたのを思い出しました。
 小児喘息がどういった病気なのか、身体がどのようになるのか、
そして治療法はと母は苦心していたようです。
その中で今から思えば、正しい治療をしていた事がひとつありました。
乾布摩擦です。私が小学校でしたので、
自分でやるのはおっくーでしたので、毎日朝夕、母が胸、背中を
コスってくれました。
その他、噂などを聞き、漢方薬なども飲んだ記憶があります。
(この漢方薬は保険適用外の民間のもので、すごく高かったように
思います。)
よくあるパターンで小児喘息は身体の成長とともにいつの間にか
なおってたようです。
 大学を卒業後、山間部の建設会社へ就職し、
外での身体をつかう仕事で、喘息の「ぜ」の字もなく、
健康に過ごしていたのですが、
東京の経営コンサルタントから声がかかり、
山猿のような生活から、東京の経営コンサルタントの先生へと
変身をいたしました。
 会社を経営した事がない田舎物が大きな会社の社長を
相手に指導教育するのですから、
勉強なども含めた肉体的ストレス、切迫感などの精神的ストレスが
とても大きく、とうとう下関のビジネスホテルで一晩中咳発作で、
眠れませんでした。
とうとう、成人喘息のはじまりです。
 喘息患者の皆様と同様、近くの町医者にかかっていただのですが、
そのお医者さん曰く「仕事をやめなきゃ、死にますよ」との事。
だんだん、発作はひどくなるし、結局その、経営コンサルタントをやめ、
地元の金沢へもどり、設計会社へ再就職。
 再就職もいろんな事情で京都へ3年間単身赴任でした。
単身赴任中ももちろん喘息で医療機関にかかっておりましたし、
点滴も日常茶飯事、喘息での入院もありました。
単身赴任も終わり、やっと自宅からの通勤となりました。
そこで、また亡き母の登場です。
近くの内科医にかかろうと思っていたのですが、
母が「城北病院に喘息の名医がいる」という事で、
城北病院へかかる事を勧めるのです。
 当時も、城北病院は共産党支持で、当時の私は
城北病院自身が共産党だと思っており、
その母の勧めは受け入れかねました。
そういったやり取りが何回かあったように思います。
 そうすると、今度は家内までもが母を応援し、
城北病院への通院を勧める次第です。
 そういった状況で、私は家庭平和の為に、
城北病院へ通院する事となりました。
やはり、城北病院には名医がいらっしゃいました。
おかげでもう何年も前に薬が不要となる寛解状態になりました。
母がなくなり、まだ49日もあけていないのですが、
喘息と母とのかかわりを書かせていただきました。
わかば4月号4頁
2011年度石川県喘息友会総会・金沢支部・加南支部合同新年会[:ビール:][:お酒:][:ラーメン:]の記事と写真が掲載されております。

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